中国残留孤児の話
(中国帰国孤児定着促進センター「宿泊棟」の記録)

 

【まえがき】
 この話は、悠久な歴史から見れば瞬間的な出来事であった。しかし、人権上の問題からみると大きな出来事と言えるだろう。それは埼玉県所沢市の「中国帰国孤児定着促進センター」での日々に起きる出来事だ。
 1945年8月、日本国の敗戦による中国からの引揚げ事業は一時中断の時期はあったが、1958年まで続いた。しかし、日本政府は1958年3月に「未帰還特別措置法」を施行し、中国に残留している多くの日本人を「死亡宣言」し、その法のもとに残留者の戸籍を抹消した。
 「残留日本人を探して欲しい」という家族の要請に対し政府は、中国との国交が無いという理由でこれを拒絶した上、役所は執拗な説得で「戦時死亡宣言」を家族に同意させていった。
 そして中国に残した家族は「死亡」したことにされ、日本人が残留している「事実」が消されていったのである。
 日本政府が重い腰を上げてこの中国残留者の調査をやっと始めたのは、1972年の国交回復後の三年も後のことであった。
 1981年3月、中国残留孤児の訪日調査が開始され、1984年に残留孤児の帰国が始まった。しかし、政府はこの「中国残留孤児定着」事業が敗戦後の「引揚げ者」との相違が分からなかった。残留孤児とその家族が「異国民」という認識がなく、日本国政府の認識は無理解、無策であった。そこで政府が進めたのが日本民族への「同化政策」であった。
 現在、政府は国内での労働力不足を補うため、外国人労働者の導入政策を打ち出している。これによって世間に「異民族との共生」、「多文化との共生」が宣伝されている。
 しかし、日本は古来から「単一民族」という神話と考え方があり、今もそれは根強く残っている。
 近代に於いて、琉球王国、アイヌ民族の武力制圧での同化、朝鮮民族の創氏改名の事実を歴史が証明しているように、一朝一夕に「異文化、異民族共生」社会になるとは、過去に「中国残留孤児と帰国者」の「差別と同化政策」による残酷な実態を体験してきた私には考えられない。
 敗戦後の三大悲劇である「原水爆病」、「水俣病」と「中国残留孤児」。いまでは世間から残留孤児は忘れられている。この「残留孤児と家族」(以下、帰国者と呼ぶ)は夢にまで見た念願の日本帰国の第一歩から政府の「同化政策=入郷随俗」による定着指導で塗炭の苦しみを強いられるのだ。
 1984年、埼玉県所沢市に「中国帰国孤児定着促進センター」が設置された。そこに帰国者は四か月間入所し、日本語学習と定着生活指導を受けることになった。
 大量帰国者時代となった1987年、私はこの「中国帰国残留孤児定着促進センター」(以下、センターと呼ぶ)に就職した。センターは事務所と日本語学習の「研修棟」と、居住する「宿泊棟」に分かれている。私はこの宿泊棟で生活指導員として勤務し、2003年までの十五年間、時には帰国者と寝食を共にし勤めてきた。
 当時の政府には、孤児は「血」だけが日本人であり、同伴家族は生活習慣から思想まで異なる「異民族」という認識がなかった。そこでセンターを運営する「中国残留援護基金」は、当初からその機関紙で帰国者を一日も早く日本社会に同化させる談話を掲載してきた。
 この帰国者に対する「同化政策」がセンター宿泊棟で発生した事件、事故などの根源であり、様々な悲劇を生む温床であった。
 

宿泊棟職員(1990年代)著者左端