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[残留孤児とボランティア](1)

中国残留孤児は、戦前の日本政府による「移民政策」で中国東北地方に送られた「満蒙開拓団」の子供達だ。1945年8月、日本国の敗戦によって開拓団員は現地を追われた。そこから子供達の悲劇が始まった。親に連れられ長い逃避行。食うや食わずの強行軍が続く。親達は帰国のため都会に向かう。子供達は次第に足手纏いになってくる。親は「手を引かなくていい。自分で歩くから連れていって」と、言う子を置き去りにして行く。そして農民に「預ける」、「売る」、「川に捨てる」、「殺す」などの非情な光景が続出した。集団自決もあった。親達が着いた街でも食べ物はなく、乞食同然の生活が続いた。栄養失調と病気、そして発疹チフスなどの伝染病も流行った。何とか生き延びて帰国船の待つ港に辿り着く。待ちに待った乗船はできたが、船中で病死者がでる苦難の帰国であった。
 その後、置き去りにされた子供達や残留者を日本政府は戸籍を抹消し、中国に日本人は「居ない」ことにした。
 その孤児達を「預かった」、「貰った」、「買った」農民の多くは人間愛、人道的精神からであった。しかし、事実はその様な養父母ばかりでは無かった。慢性的な農村の貧困。実子が生まれる。周囲からは「なぜ不倶戴天の敵の日本鬼子の子を育てるのか」と非難の眼。そして国内戦争による社会の混乱。それらが次第に養父母の人間愛の限界を破壊していった。孤児を「貧困で学校に行かせない」、「農奴として使う」、「家畜同然に奴隷として売買する」などの事態も発生した。その為、多くの孤児は貧しい生活を長年耐えてきた。その辛い経験がストレスとなって心に残っている。
 1981年からの中国残留孤児の訪日調査と帰国事業は、孤児が抱えているストレスと、同伴家族が異国民であることを理解することなく始められた。
 この帰国状況のテレビ放映を親達はどんな気持ちで見たのか。「置き去りにした我が子」が帰って来たのだ。逢いたくないのか名乗り出ない親や兄弟がいる。彼らにも他人に言えない事情があるのだ。
 私はセンターに就職する以前、地域のボランティアで帰国者に関わってきた。
 ある「母と娘」の場合。母は引揚げの時に娘を中国人に預けてきた。帰国した後に再婚し子が生まれた。事業を起こし順調な生活であった。成人した娘は母を探した。そして埼玉県に居住していることが分かった。娘は何回となく母に帰国を頼んだが受け入れてくれない。母は中国に実子を残してきた事を隠していたのだ。住む屋敷は広く財産も有る。実子が帰れば財産相続など問題が起きると考え、帰国を許さなかった。その事情を知った友人たちが協力し娘家族を帰国させた。母は仕方なく同居したが、直ぐにトラブルが発生した。娘家族は夫と二人の子供だが、親家族とはまったく言葉が通じない。子供同士の仲が悪くなる。母は、娘の夫にバイクの免許を取らせ働かせようとした。しかし、夫は日本語がまったく分からない。何回か受験したが合格する訳が無い。そして家に引きこもり動かなくなった。
 そこで母は、娘家族に中国に帰るよう説得した。しかし娘は言うことを聞かない。そこで、母から私に連絡があった。娘家族を中国に帰せないかの相談であった。しかし、それはまったく乗れない相談であった。
 そこで娘家族は我慢できず家出した。そして警察沙汰になった。
 ある「兄と弟」の場合。私の知人は敗戦の混乱時に幼児の弟を中国人に預けてきた引揚者だ。その弟が、1981年に日本政府が始めた中国残留孤児の訪日調査で来日した。しかし、三十数年振りの兄弟の再会は劇的では無かった。兄には複雑な事情があり、以前から弟の帰国に反対していたのだ。そこで、弟には面会時に多額の金を渡し、日本に帰国せずに中国で事業を起し生活するよう説得した。
 しかし、兄の願いは空しく数年後に弟は帰国した。そして私の勤務するセンターに入所したのだ。私も驚いたが、突然の弟の出現に兄は仰天、想像もしなかった事態に動揺した。直ぐに兄はセンターに駆けつけた。所長に弟を中国に帰して貰いたいと相談したが、通る話ではなかった。
 肉親を置き去りにした母も兄も、そして残された娘も弟も、皆同じように想像できない悲惨な過去があるのだ。誰が「悪い」などとは言えない。