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【病気】その2

ある中年の女性は、時々激しい腹痛がするという。病院で受診すると直ぐにレントゲン検査。医者は虫垂炎と診断。手術することになったが、腹部に異様な影も有るという。通訳が詳しく聞くと、女性はパンツに縫い付けたポケットに「へそくり」を忍ばせていた。医者は考えられないと苦笑い。
 中国の女性には良くある場所という。確かに誰も見ることができない「場所」だ。
 センターの医療体制は研修棟に保健婦が一人、宿泊棟に看護婦が一人で対応している。
 ある青年は、水虫で足が痒くて堪らないと保健室に行った。保健婦は足の指を見るより先に靴を見た。そして、この暑い夏に黒色の靴を履いていれば水虫になるのは当たり前だ。夏は白色の靴を履くように注意した。
 帰国者のどこに白色の靴を買う余裕があるというのか。保健婦が知らぬはずはない。毎月支給される生活費のなかで雑費は一日百円と微々たる額だ。理髪代が高く床屋や美容院に行けないのだ。私は中国を訪問する度に、バリカンを何丁か買ってきていた。帰国者のなかに器用な人は居るのもで、お互い頭を刈り合っている。
 ある日、女性が宿泊棟の看護婦に相談にきた。彼女は養母を同伴してきていた。その母が便秘で苦しんでいた。そこで彼女は近くの藪から笹を折ってきて、その棒で固まった便を掻き出そうとした。しかし、上手くゆかなかったという。聞いた看護婦は臆することなく、すぐにゴム手袋をはめ指で硬い便を掻き出した。彼女には棒は傷をつけるので止めるように注意し、母には緩下剤を飲ませて終わった。
 この看護婦は、戦前に中国の東北地方にある有名な医科大学に在学していた。しかし、日本の敗戦で医師になることができなかった。解放軍に留用され従軍することになり、内戦の続く中国大陸の戦地を転戦しつつ傷病者の治療に当たった。軍隊の移動は常に夜間行軍であった。何処の都市を通過して移動したか分からない。車とか馬に乗った記憶はなく、歩き続けること八年間。最後に到着したのが最南端の海南島であった。最北の地から南の地まで大陸を縦断していたという。
 彼女の医学知識は豊富で医療技術も優れていた。言葉も分かり中国人の気質も良く心得ていて、帰国者の信頼は厚くセンターで最も頼れる人であった。
 このセンターにはボランティア団体である「中国帰国孤児定着促進友の会」が支援してくれている。春は「桜の花見」、夏は「盆踊り」、冬は「クリスマス・パーティー」と、帰国者には馴染みのない催しだが、みなが楽しめるイベントを開いてくれる。
 ある年のクリスマス・パーティーの翌日、夫婦と息子の家族が夫の体調が悪いと訴えてきた。急遽、職員が防衛医科大学病院に搬送した。診断した医者は投薬と安静で様子を見ると指示。家族は夫の入院を頼んだが、医者はその必要はないという。仕方なく家族は納得しないまま帰棟した。夫はしばらく部屋で休んでいた。そのうち気分が悪くなりトイレに行ったが、そこで倒れしまった。再び防大病院に搬送したが心肺停止状態となっていた。蘇生処置も効果なく亡くなってしまった。
 諦めきれない家族は、初めに来たときに入院していれば助かった、職員が医者に強く入院を要望しなかったと、責任を追求し始めた。職員は医者の指示に従っただけであったが、二人は納得しない。そこでセンターと遺族と病院との三者で話し合いがもたれた。会談で遺族が何を要求しているか分からないが、折り合いが着かず、話はこじれにこじれていった。正月を迎えても解決のメドが見えない。業を煮やした遺族は不満を爆発させ、妻は玄関ロビーに飾ってある松竹梅の大鉢を床に叩き付け暴れた。正月休みも終わり研修棟に行く日、二人は朝から大声で棟内を廻り、授業のボイコットを呼びかけた。入所者もみな遺族に同情し、全員ストライキに入り部屋に篭城する事態となった。
 それでもセンターと厚生省は遺族の要求を受け入れなかった。会談は続いたが、埒が開かないとみた遺族は防大病院に安置されている遺体を担ぎ出し、入所者全員で市内をデモ行進すると言い出した。
 連日、会談は研修棟で行なわれ深夜に及んだ。私も事務所に詰め遺族の帰りを待っていた。翌朝まで続く徹夜の日もあった。そんなある日の深夜、事務所に息子が一人で入ってきた。手にした小冊子をコピーしたいという。見ると真新しい貯金通帳だ。コピーのとき見えた記入欄は一行だけだ。見舞金か示談金か。息子はコピーした用紙を持つと、私に一礼して帰っていった。
 翌日から、センターは何時もの平穏な日々となった。