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【ゴミ漁り】その2

  自転車が貸与されると飛躍的に増えたのが粗大ゴミだ。重たい冷蔵庫、テレビ、洗濯機、絨毯、机など家族総出で自転車に積んでくる。使えないと分かると捨てる。次から次と拾って来る。宿泊棟のゴミ置場は狭く置き切れない。棟の横にある空き地に捨てる。
 センターは、繰り返し「ゴミ漁り」禁止を伝達し指導するが、帰国者の「欲望」には勝てない。所長は効果がないのにしびれを切らし、授業が終わり宿泊棟に帰る頃を見計らい門前で監視した。しかし彼等は所長の姿を見つけるとゴミをリハセンター宿舎のゴミ置場や周りの藪に隠し、手ぶらで帰ってくる。夕食が終わると「品物」の回収に出かける。所長は見張りを3日で諦めた。
 「鴨居が低ければ頭を下げて門をくぐる」これも中国の言葉だ。
 ある家族は「ゴミ」を集めに集めた。それを入れたダンボール箱で部屋が満杯となり、自分たちの座る場所が無くなった。そこで、その箱を畳の上に敷き詰めた。彼等はその上に蒲団を敷きちゃぶ台を置いて生活していた。その下にある箱と箱との隙間はゴキブリの「天国」となった。退所のあとに残ったゴキブリの数が数百匹と半端でない部屋もある。
 日本では考えられない物も拾ってくる。それは仏壇。拾って来たのは独身の孤児だ。敗戦のあと親は姉弟を中国人に売った。その後は帰国するまで奴隷のような生活であったという。無論、文盲で左手の指が何本か無い。その仏壇は窓際に置かれ位牌の代わりに人形が飾られている。毎朝草花を供え、中国で生き別れとなった姉の無事と再会を祈っている。退所のあと、毎日駅頭に立ち姉の名を叫び探すという。涙なくしては聞けない話だ。
 毎朝、研修棟に行く道筋に街のゴミ置場がある。そこから手に持てる物は教室まで運び、机の下に置いて勉強する。大きい物は帰りに寄って持ち帰るのだが、夕方まで有るか無いか心配で勉強に身が入らないという。
 アメリカ軍通信基地の北側には隣接する高層の団地がある。研修棟に通うには遠回りだが、そのゴミ置き場に寄って行く。その団地の管理人は私の旧知の方で、先の大戦時に中国に派遣された軍人で戦犯でもあった。帰国後は友好交流活動にも携わり「中国」が好きな人だ。
 毎朝、帰国者がその団地のゴミ置場に寄って行くのを見ていた。そこで使える電気器具などを分かり易い所に置いていた。
 ある日、青年がゴミ袋に入った中古衣類の中から何万円かの現金を見つけた。そのニュースは直ぐに帰国者に伝わり広がった。彼等の目は衣類の入った袋に集中した。
 団地のゴミ置場に捨ててある衣類はビニール袋に詰められている。その袋を破り、中を取り出し漁る。衣類を四方に散乱させたまま立ち去る。管理人は急いで後片づけをする。そんな事が何日か続いていたが、ある日から管理人が変わっていた。
 暫くして、知人の管理人が航空公園駅前商店街の道を清掃している姿を見かけた。そこで団地での顛末を聞いた。彼は帰国者がゴミの衣類から現金を見つけた事は知らなかった。住民からは「下着は袋を二重にして捨てたが、散らばっていて恥ずかしかった。」とか「早く出勤して見張り、取り締まれ」などの講義を受けた。そしてクビになった話であった。
 入所者は四か月の研修が終了すると直ぐに退所日を迎える。その日は身元引受人と関係者が自動車で迎えに来る。帰国者は待ちに待った定着地に向かう。今迄に集めた「ゴミ」も連れて行くが、その殆どが積み込めない。急遽ダンボール箱を開け、仕分けが始まる。必要な物だけ積み込み、残った物は泣き泣き置いて行く。ゴミに後ろ髪を引かれ、去って行く姿が哀れであった。
 全員が退所した後、職員が総出で残されたゴミを一カ所に集める。そのゴミは棟の二階の高さになる凄まじい量である。
 当初、それ等のゴミはセンターの職員がワンボックス車に積み込み、街の清掃工場に運んでいたが、大量の冷蔵庫、テレビ、濡れた絨毯など職員では手に負えなくなった。そこで、粗大ゴミの運び出しは街の回収業者に依頼した。