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[中国帰国孤児定着促進友の会]

ボランティア団体「中国帰国孤児定着促進友の会」(以下、友の会と呼ぶ)は、センター開所の翌年の1985年、所沢市民が中心となって発足した。その直後から残留孤児の大量帰国時代となった。直ぐに友の会の会員は県内に広がり、1200名を超えるまでになった。
 会員は「元開拓団員」、「元兵士」、「中国に居た」、「一歩間違えれば孤児になっていた」、「孤児、養父母に関心が有る」、「帰国者の役に立ちたい」、「会員に頼まれた」など多彩な顔ぶれだ。
 友の会の主な事業は「励ます集い」、「音楽交流会」、「日本語教室」、「折り紙教室」、「花とみどり」、「電脳教室」等。その外に宿泊棟の日直と宿直、居室の大掃除、衣類のプレゼント等もあり活動は多岐にわたった。とりわけ「励ます集い」は、入所ごとに毎期開催された。その「盆踊り」、「花見の会」、「クリスマス会」は、会場には屋台の料理も出て、歌や踊りに太極拳と、終日帰国者を励まし楽しませてくれる。
 帰国者は「ボランティア」とは、初めて聞く言葉でその意味が分からない。それにセンター職員と友の会の会員との区別がつかない。そのままセンターでの日本語研修と生活指導が始まる。
 厚生省は、センターの目的は「外国人用日本語学校のヒナ型」をつくることであり、「入郷随俗」により厳しく教育する。友の会は「郷に入れば郷に従え」と優しく接する。しかし、そこに異民族、異文化との共生、共存の思想はなく、あるのは一日も早く日本人として生きて行く同化教育である。
 当初、センターは職員不足もあり、友の会に休日と正月の日直、宿直を依頼した。事故も事件も発生する。事件を起こし警察沙汰になった青年を貰い下げに行く。怪我や病気の対応もする。その状況は友の会の広報誌である、会報「ともだち」(a`15号)にある。
 この業務は当然職員が対応すべき問題だが、厚生省は人件費節約で友の会に「オンブにダッコ」が続いた。そこで、この様な活動に疑問を持った会員から「ここは戦争の後始末の施設だ」、「国や行政の仕事だ」、「中国人を同化できない」など、センター批判の意見が「ともだち」に載った。しかし、その後に会長の検閲が厳しくなり、国やセンター批判の声は会員に届かなくなった。
 帰国者の服装は殆んどが人民服と人民帽だ。これを見て友の会は直ぐに動いた。それは中古衣料の贈呈だ。その状況が「ともだち」(a`68号)に載っている。そこには「全国から中古衣料が送られてきたので、小学校の体育館を借り、中古衣類展示贈呈をしました。クリーニング屋から大きな袋を贈呈してもらった。会場いっぱいの品物があらかた無くなった。しかし翌日宿泊棟に山になって捨てられている。これには職員が困った。背広が欲しいと、大小構わず袋に詰める。献品の中に汚れたままの物が入って居たり、男性の汚れたパンツまで入っていて、その整理には本当に困りました」とある。帰国者からは「新しい物があると思った」、「洗濯した物が欲しい」、「下着が欲しい」、「我々は乞食ではない」と宿泊棟の職員に苦情の嵐。