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 〒354−0026 埼玉県富士見市鶴瀬西2−8−8−601
 富士見市日中友好協会

[あとがき]
私が「中国残留孤児」の存在を知ったのは、中国では文化大革命の激動の中にあった1970年代だった。国内の友好運動もその影響を強く受け、青年の活動は活発化していった。その頃、日中青年交流大会が奥日光のキャンプ場で開かれた。そこに中国の青年が真紅に「紅衛兵」と黄色く染め抜いた大きな旗を掲げて参加した。それが参加者の注目を浴びた。
 その交流会に埼玉県越ケ谷市から参加した会員から引揚者支援活動の報告があり、残留孤児の話があった。
 それは、親元に帰国した残留孤児の娘が独りで生活することになった。そこで近所の有志が「電気釜」をプレゼントした。娘は簡単に飯が炊けると聞いて大喜びをした。しかし、翌日に飯がどうしても炊けない、スイッチを入れてもすぐに切れてしまうという。見ると釜に米は入っているが水は入れてない。そもそも娘は中國で「米」は食べていなかった。親の家では飯は食べていたが炊いたことは無かった。飯が簡単に炊けるという説明に「水」が抜けていたのだ。
 当時、私は国鉄労働者であったが日中友好活動にも携わっていた。日中国交回復後は県内にも多くの残留孤児が帰国してきた。地域では帰国家族との交流も始まっていった。
 私は、兼ねてから「中国」に関わって行く考えでいた。そこで1987年、この「中国帰国孤児定着促進センター」に転職した。
 2003年に退職したあと、暫くすると帰国者が激減しセンターが閉所されることになった。
 そこで、当時の記憶を記録することにした。今迄に多くの残留孤児に関する書籍は出版されているが、そこには取り上げられていない「闇」の部分に「光」を当て記録した。
 この「中国残留孤児残酷史」を書く中で「満蒙開拓団」、「残留日本人」、「孤児」に関連した多くの資料に眼を通した。その中である中国人の言葉に出会った。そこには「この残留孤児の帰国事業で、日本人孤児には政府も民間団体も大騒ぎしているが、この日中戦争で中国に大量の戦災孤児や不具者になった中国人のことは一言も触れていない」とあった。
 この指摘には反論の余地は無く、まったく「片手落ち」であることに気づかされた。片手落ちには「不公平」の意味もある。
 日本に於いては、戦災孤児に関する資料は映像を含め多く残されている。そこには孤児の厚生施設、生活から自立までの記録もある。しかし、加害した日本側には、中国被害者の実態を記録した資料が無いと、その「不公平」を中国人は言っているのだ。
中国には、1976年の唐山市に起きた大地震で発生した多くの災害孤児については、国を上げての救済記録がある。日中戦争での戦災孤児の記録がどこかに有るかも知れない。
 敗戦後、この「片手」を調べた日本人は居たかと思うが「記録」は残されていない。日本政府はこれ等について調査し記録する義務があるのだ。
 「昭和の大戦」による民間人の犠牲者は、中国約1000万人、朝鮮約20万人、ベトナム約200万人、日本約80万人、アジア全体で約2200万人といわれている。
 戦後76年、しかし全ての人にとって戦争が1945年8月15日に終わった訳では無い。傷病軍人、戦没者家族、原爆被害者、戦災被害者、引揚げ者と多くの人に戦争は続いた。
 そして「センター」に入所した中国残留孤児への差別と過酷な生活環境と食事。そして定着後の生活保護の生活では、里帰りできないという事実。また親族単位で動く民族と言われる帰国者が故郷に残してきた家族を呼べないという情況に今も繋がっているのだ。
 またセンターでは入所者が問題を起こすと、地域の人や職員の中から「中国人」、「異民族」、「異文化」だから仕方がないと非難されてきた。
 この「人間」を見た目で考え判断することは、日本国の出入国在留管理局における異国民、異民族に対する人権無視、差別、虐待を見るまでもなく現在も続いている。
 「生き残った者は、死者の無念を自分自身の生き方として受け止めなければならない」
                     (天声人語、2013.8.7) 
  日々、戦争の記憶が薄れてゆくなか、そこで何の罪もない多くの民間人が犠牲となり、中国に残留孤児が生まれた悲劇が、誰も知らぬまま消え去ってしまう。戦争の事実を知っている者は、次の世代に引き継いでゆく責任がある。
 この不条理が二度とあってはならない。
 先の日中戦争は「間違いだった」 これを言い続けなければ、残留孤児は浮かばれない。
                                           (完)