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【宿泊棟の生活】

 帰国者は中国にある家屋や家財を処分し、当然だが仕事をやめてくる。財産は両手に下げた荷物だけだ。文字通り貧しい無産階級の人達だ。しかも年齢、学歴、育った環境も異なる集団だ。それが異国である宿泊棟で共同生活を始める。
 入所のあとは初期指導、問診、そして家族写真の撮影と続く。家族全員と個人とを何枚か撮る。すると、中に首を傾げる家族構成がある。孤児本人は四十から五十歳ほどだが、同伴家族の子供の年齢が高く親と計算が合わない。両親と子供の顔が似ていない。兄弟だが顔が似ていない。双子と言うが身長差が大きいなどだ。夫婦の場合で年齢差の大きいのは再婚が多い。
 ある孤児は妻が亡くなった後、育った農村から一人で街に出て働いていた。何年か経つと残留孤児が帰国できることになった。男性は身元を証明する書類が必要となり故郷に帰った。村役場で書類を作り帰って来たが、なぜか自分の子供という男を二人連れてきた。話によると、男性が村に帰ると文化大革命の時代に行方不明になっていた息子兄弟が突然村に帰って来たという。そこで一緒に帰国する為に村役場で家族の書類を作って来た。同伴してきた兄弟に年齢差はなく顔も似ていない。しかし、持参してきた書類は本物だ。
 また、どう見ても孤児と思えない独身女性もいた。彼女は日本人ではないと噂されたが、これも持参の書類は日本人になっている。厚生省も疑ったようだが、合法的に入国した者は帰せないという。
 中国で発行された書類は正式なものというが、考えられない物が有る。ある家族が同伴した二十歳前後の姉妹が持参していた「大型自動車運転免許証」だ。日本で同様の「免許証」を交付して貰いたいという。どう見ても大型自動車を運転できる二人に思えないが、中国の「免許証」は本物だという。日本で大型免許の取得には運転経歴、実習試験、学科試験等が必要であり、相当な費用も必要だと説明する。中國で時間と多額の「金」をかけて入手したのだろう。困惑する娘さんの顔が忘れられない。
 ある男性孤児の四人家族の写真を撮ると、一見、孤児と子供三人と思ったが実は夫婦と子供二人であった。配偶者の妻が異常に若い。やはり再婚であった。
 入所の夜に妻が蒲団を廊下に出して寝ていた家族だ。聞くと、夜中に夫が蒲団に入ってきたので逃げたという。この部屋は六畳一間。そこに夫婦と年頃の息子と娘がいる四人世帯だ。このような状態の部屋は他に多くあり、別の部屋を用意できる余裕はなかった。しかし、彼女を廊下に寝かしておく訳にはゆかない。その夜は、母と娘二人だけの部屋で面倒をみてもらった。ところが、その夜だけでなく、居候の状態は四か月も続いた。退所の日、孤児の夫と子供は退所して行ったが、妻は離婚すると言って同行しなかった。一人で残留し定住することは、計算済みの来日であったのか。
 しかし、物事は計算通りには行かぬもので、彼女の希望の実現には時間がかかり、最後は想像もできない結末を迎えた。
 センターを退所し定着するには、身元引き受け人が必要である。保証人のようなものだが、その人がすぐに見つからない。そこで彼女は長期滞在を覚悟したのか、陽当たりの良い部屋を要求してきた。部屋の壁にはピンクの紙を張り、貸しアパートのような感じ、家具も何品か揃えた。そして、退所後の生活に備えアルバイトを始めた。仕事はスーパーの仕込みで、早朝まだ暗いうちに出かけていた。仕事がきつく肩が痛いと、看護婦のところにきた。張り薬を渡したが満足しない。マッサージで直したいという。そこで、近くの整体医院で診てもらった。満足したのか続けたいという。入所者の医療費は全額無料だ。その後は一人で通院していた。彼女は気性が荒く、気に食わないと、すぐ頭にきて暴れる。宿泊棟では、彼女が要求するものは可能な限り聞いていた。所長の許可が必要なことは、研修棟に行き直接談判で所長に要求していた。
 センター職員で、中国が嫌いな人がいるのは仕方がないが、それが厚生省からの天下り幹部職員に多かった。右翼の職員もいた。彼は例の大型宣伝カーで出勤してくる。研修棟の駐車場は教室の目の前だ。車には右翼特有のスローガンと日の丸が付いている。勤務中にスローガンを書いていても、センターも厚生省も見て見ぬ振りをいていた。彼女はその職員を極端に嫌っていて、よく衝突していた。
 ある日、宿泊棟に冷凍装置の付いた新しい冷蔵庫が入荷し、各居室の古い冷蔵庫と交換した。しかし、センターは彼女には残留者との理由で交換しなかった。そこで、直談判に研修棟の所長室に自転車で飛んで行った。そこで「差別するな」、「新しい物と交換しろ」と、要求したが所長は聞き入れなかった。血相をかえ帰ってきた彼女は「火事場の馬鹿力」か、部屋から冷蔵庫を抱えて来ると、事務所に中に投げ込んだ。中に入っていた食材は飛び出し、卵は割れ辺り一面に散乱した。
 宿泊棟の職員は、この様な事態になることは覚悟していた。みな予想通りの「事」だと驚かない。所長に電話で状況を伝えると、仕方なく交換を許可した。彼女は散乱した食器など片づけ、床を掃除した。新しい冷蔵庫を見た顔は正常に戻っていた。
 その後も、彼女の希望する定着地に身元引受人がいないのか、それとも折り合いが付かないのか、数か月が過ぎていった。
 そんなある日、若い職員と些細なことで言い争いになった。すぐ頭にくる彼女は部屋から包丁を持ってきた。仕方なく職員は警官を呼んだ。連行された彼女はそのまま留置されてしまった。何故か、すぐ釈放されなかった。センターは、また事件を起こすと困るからか、それとも帰したくないのか、長い間警察署に留置され月日は経っていった。
 心配したボランティアの人たちが身元引受人を探した。ようやく釈放されたが、同時に退所することが条件であった。
 退所するとき、私を睨み付けた目は野獣のように変わっていた。

 ある夜のこと、みなが寝静まった頃に廊下を右往左往している女性がいた。帳面を手にして何か悩んでいる様子。事務所で聞くと、部屋が狭く、机もなく宿題ができないという。帳面を見ると算数の問題が何行か書いてある。簡単な足し算、引き算だが、彼女には見たこともない数字や記号で、答えが分からないという。研修棟の授業は算数も日本語で教えている。文盲の人には説明が分からず、算数が何か理解できない。何も分からないまま宿題は出される。そこで、彼女には分かりやすく指や物を使い、また絵を書いて答えを教えた。安心したのか笑顔になり帰って行った。
 孤児の多くは農民の養父母に助けれたが、幼い頃から労動力として育てられた。このような境遇であった帰国者に共通するのは、無学で文盲であることだ。入所者の文盲率は30%以上で、特に配偶者の女性に多いようだ。
 ある孤児は養父母を同伴していた。その家族も八畳一間で、親と子供と三代の同居だ。年頃の娘は着替える所がないと嘆いた。
 毎期ごと、入所者からは大きい部屋に替えて欲しい、二部屋を欲しいとの要望が出され、問題となっているのだが、居室の余裕は無く、センターは聞く耳を持たない。