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【喧嘩(1)】

 帰国者は、中国で農村という同じ境遇で育ち生活してきた人が多い。そこで仲間意識が有るのか、多少のイザコザはあったと思うが、事件になる大事は無かった。幾つかあった喧嘩には必ず青年が絡んでいた。そのなかで日本では考えられない笑える喧嘩があった。
 休日は、大人も子供も三々五々ホールに集まり遊んでいる。そこで一人の青年がタバコを吸いだした。すると、そこに居合わせた一人の孤児がタバコの箱に手を出し黙って一本抜き取った。中国では「タバコと酒には国境が無い」といって、それは共有物のように、他人の持っている物に黙って手を出す習慣がある。孤児は日本にいるのを忘れていたのか。ここは中国ではなかった。身に付いていた習慣なのだろうが、青年は怒った。入所者に趣向品を買う生活費は支給されていない。少ない雑費を工面してタバコを買っているに違いない。それを無断で横取りされたのだ。青年は素早くタバコを取り返すと、大声で怒鳴った。孤児はつい手が出たと言い訳を繰り返す。口ケンカとなったが、孤児は悪気は無いと謝らない。すると青年の手が伸び相手を突き倒し、部屋に帰って行った。孤児は仕方がないと思ったのか反撃はしなかった。そこに騒ぎを聞きつけた家族が飛んできた。倒された親を見た娘が激怒し青年の部屋に押しかけた。大声で怒鳴りドアー
を拳で叩いた。しかし青年は開けない。そこで今度は思いきり足でドアーを蹴った。ドアーはびくともしない。すると娘は悲鳴を上げ倒れ込んでしまった。見ると親指が曲がっている。骨折したのだ。痛くて立ち上がれない。もう抗議どころではなくなった。急遽、職員が病院に娘を搬送して「一件落着」。
 ある日、青年同士の喧嘩が始まった。直ぐに騒ぎは大きくなり職員が駆けつけると数十人が廊下を駆け回っている。ボール大の石や廊下に置いた琺瑯引きのタン壺が飛び交っている。ブリキのゴミ箱も凹んで転がっている。仲裁に入るにも命懸けだ。治まるのを待つしか無かった。
 大人たちが総出で青年を押さえ、部屋に連れ戻してくれた。大騒動であったが幸い怪我人は無かった。話を聞くと、最初は二人だけの些細な口論から始まったが、二人の出身地の省が異なっていた。すると、双方に同郷の者が加勢し膨れあがったという。まるで各省同士のケンカ対抗試合であった。
 それ以後、廊下にゴミ箱とタン壺は設置しなくなった。
 こんな事件があった。ある日、青年が事務所に駆け込んできた。手首が切られ大量の血が流れでている。看護婦と職員が腕を持ち上げ止血処置をしたが、なかなか血が止まらない。三人の腕は流れ出た血で赤く染まってゆく。急遽、救急車を呼んだ。
 センターから救急車を呼ぶ事はよくある。119番に連絡すると、その後に必ず警察署から電話が掛かってくる。「病気」ですか、「怪我」ですかと、そして状況を聞かれる時もある。単なる「怪我」と言っても、警察はセンターの実情は良く知っていて、「事故」ですか、「喧嘩」ですかと攻めてくる。警察はすぐに病院に「怪我」の状態を問い合わせるので、誤魔化しは言えなくなる。
 加害の青年は問題児で清掃はサボる、器具は壊す、ゴミは漁ってくるで、手に負えない存在であった。救急車と入れ代わりにパトカー
で二人の警官が来た。事務所で青年から状況を聞くと「数人の仲間で遊んでいた。誤ってナイフで切ってしまった」、「怪我をさせる気は無かった」と、言い訳に終始して話が先に進まない。そこで警官は詳しい話を警察署で聞くと言い、青年に同行を求めた。すると青年は逮捕されると思ったのか、警官を突き飛ばし事務所から飛び出した。警官が後を追うと、突如青年は廊下の柱に頭を叩き付けた。自殺を図ったのだ。騒ぎを聞きつけ母親が駆けつけてきた。目の前に倒れている息子を見るやいなや「アイヤー」と叫び、その場に倒れ込み気を失った。廊下に気絶した二人が並んでしまった。その顛末を目の当たりにした警官は唖然とした。職員と集まった野次馬も仰天した。しかし看護婦だけは冷静であった。青年に怪我はなく息をしている、そのうち気が戻ると、そして母親は過呼吸だ、心配ないとビニール袋を顔に被せた。
 警官はこんな光景を見るのは初めてだと、そして仕方がないと引き揚げてくれた。
 暫くして、看護婦の言う通り二人は息を吹き返し、いそいそと部屋に戻って行った。