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【コソ泥】

 コソ泥のような小さな事件も度々起きる。

 ある朝、宿泊棟に隣接する国立リハビリセンター宿舎の男性が血相を変え事務室に入ってきた。この宿泊棟はリハビリセンター敷地の一角にあり、棟の周辺には空き地が広がっている。そこをリハビリセンターの住民たちが家庭菜園にしている。季節毎に色とりどりの作物を育て、その収穫を楽しんでいるのだ。男性が訴えるのは、朝早く食べごろになったキュウリを取りに行くと、それが全部無くなっていた。畑には新しい足跡が残っていた。それを辿って行くと宿泊棟の裏口に着いた。そこで帰国者が盗んだに違いないと、事務所に来たのだ。
 すぐ裏口に行くと、外からの泥の足跡が棟内の廊下に点々と残り、ある居室まで続いている。扉を叩くとすぐに男が顔を出した。事情を話すと、彼は毎朝の散歩に行って来たところだと、そしてキュウリは取ってこないという。本当かどうか問い質すも、俺は「絶対に取っていない」、「部屋の中を探してもいい」と言い張る。仕方なく男性はあきれ顔で帰って行った。
 キュウリは部屋の中には無いのだ。既に獲物は家族の胃袋の中に収まっているのだ。
 ある秋の休日、宿泊棟の玄関に黒塗りの乗用車が横付けになった。降りてきたのは男性、リハビリセンター宿舎の住人だ。事務所に入るやいなや、近くの菜園で収穫したサツマイモを盗まれたという。詳しく聞くと、男性は掘り終えたサツマイモをダンボール箱に集め、それを畑の脇に置いた。汚れた手を洗いにその場を離れた。すぐに引き返したがサツマイモは箱ごと無くなっている。そこで持って行った者は近くに住む帰国者に違いないと、取り返しに来たのだ。リハビリセンターの住人なら考えられる事だ。すぐに棟内放送で「サツマイモはリハビリセンターの人が収穫した物、持ってきた者は直ぐに事務所に・・・」と伝達。しかし反応が無い。再三にわたり放送するも事務所には誰も来ない。

 その内、放送を聞いて部屋から出てきた人が玄関前に集まり自動車を取り囲んだ。それを見た男性は諦めたのか、それとも危険を感じたのか帰って行った。
 その車を見送った帰国者は「あんな高級車を持っている者がイモぐらいで大騒ぎするな」とか「金持ちなのにケチだ」など言い合っている。

 リハビリセンターの人々にしてみれば、これは「金銭」の問題ではないのだ。春から丹精込め育てた作物を黙って持って行かれた人の心情や悔しさは帰国者には分からない。道一本隔て隣接して住む日本人と中国人との間に起きる、何とも後味の悪い出来事である。
 ある朝のこと、帰国者が研修棟に出かけた後に行なう棟内外の巡回、多目的ホールに入り見回していると、窓ガラスに小さな穴が空いている。よく見ると内側は大きく外側は小さく割れている。すぐに、これは銃弾が貫通した穴と分かった。
 この窓は火災の延焼を防ぐため金網の入った強化ガラスだ。それで全体にヒビが入らず穴だけが空いたのだ。外部からの空気銃によるものらしいが、室内に銃弾は見当たらなかった。

 ホール内に帰国者が居なかったのが幸いであった。

 すぐセンターの所長に報告したが他人事のような顔。その後に何んの反応も無かったのは、厚生省にも警察にも連絡をしなかったからだ。もしマスコミに知れたら「帰国者襲撃事件」として大きく報道されたに違いない。

 その穴には小さく切ったセロテープを詰め込み、見ても分からない様にした。その後この穴は誰にも気付かれることなく、私だけが知っている「事件」に終わった。