今回の臨県訪問で見かけなくなったのが、路地に積まれた西瓜の山。「失学児童」支援を始めた頃、街や村の繁華街で大量の西瓜を山積みにして売っていた。
朝の散歩に出かけると、売れ残った西瓜の山に若者が薄汚れた布団に包まれ埋もれていた。売れ切るまで寝ずの番で何日も商っている。その寝姿を見ると何とも言えぬ逞しさを感じた。その西瓜の端に小さな看板が立てかけてある。そこには日本では考えられない言葉「一斤=自選何角、他選何角」とある。それは客が自分で選んで買う「自選」の値段と、店の人に選んでもらう「他選」との値段が書いてある。客が見た目の良いのを選ぶ方が高いと思うのだが「他選」の方が高い。これは素人は旨い西瓜を見分けるのが難しく、玄人はどれが旨いのか分かるからだという。旨いか不味いかは西瓜に包丁を入れ、小さな三角垂の一切れを取り出し試食させてくれる。これで買った人は旨い西瓜が食える。
そんな露店で買った西瓜を食事に寄った飯店に持ち込み、店員に食後に食べたいと頼むと細かく切ってくれる。中国は酒でも何でも持ち込み「好」。これは嬉しい。
ある年、同行の馬さんと有名な平遥の牛肉ハム工場で肉の塊を買い、それを飯店に持ち込み細かく切って貰い酒の肴にしたことがあった。近年、都会の洒落た飯店で「持ち込み禁止」の看板を見かけるが、残念なことだ。
山西省の地方を廻る時、西瓜に目の無い私は何個か車に積んで行く。今回も馬さんが買ってきてくれた。ノドが乾くと何処でも構わず車を止め道端で食べる。子供たちが寄って来ると一緒に食べる。子供も西瓜は大好きだ。子供との会話は、初めに「歳」を聞くと後に繋がって行く。私の中国語が下手で意味が通じなくとも子供は笑ってくれる。それが嬉しい。
*東坡小学校
5月21日。この日も三交鎮の東坡村にある学校から始めた。東坡村だから鎮の東にあると思ったが車は北に向かい村に入った。この学校には5人の里子が在学していた。学校に着き校門を見ると、私が2004年に訪れ里子と写真を撮った時と全く変わっていなかった。
ここでも目敏い村の人たちが集まってきた。私たちに付いて校庭に入ってくる。そして職員室を窓越しに覗いている。校長は不在だったが何人かの先生が集まり、里子の名簿を見てくれた。里子が在学していたのは2002年。その前からいるという先生はいたが、里子の担任で無かったので思い出せないと言った。他の先生も知っている人はいなかった。
私たちが職員室を出ると、覗いていた人たちが待ちかまえていたように寄ってきた。その中の二人の老人が前に来た時のことを覚えているという。渡りに舟と思い、馬さんから里子の名簿を老人に見てもらうと、二人は「ああだの」「こうだの」と言い合っていたが、里子が住んでいたのは学校の近くでなく、遠く離れた村であったのか、残念ながら知っている里子はいなかった。時間が有れば集まってきた人から村の話など聞きたかった。しかし、残念ながら今回はその余裕は無かった。老人の申し訳けなさそうな顔が忘れられない。
*正街小学校
この学校は、街のなかに在った。校舎は二階建て校庭も広い。武彦軍校長が出迎えてくれた。授業中であったが当時のことを知っている先生を呼んでくれた。その頃、里子は2年生と5年生の二人が在学していた。先生は5年生であった「姚彩花」を知っていた。卒業後に離石市の呂梁砿校(砿業技術校)に進学し、今はその離石市で働いている。もう一人の里子の消息は分からないと話してくれた。また、先生は私たちがこの後に訪れる西街小学校について、その学校は既に廃校になったと、そして在学していた二人の里子の内「樊小凱」を知っていた。今、彼はこの三交鎮で働いている。父親は何年か前に亡くなった。もう一人の里子は分からない、と話してくれた。廃校の学校跡は見に行かなかった。
昨日の午後に三交鎮に入り今日の午前中で、この鎮に里子が在学した10校の消息が全て分かった。訪問した9校の内1校は校名が変わり、1校は幼稚園になり、廃校は1校であった。 |
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