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その後の里子を訪ねて(5)

*府底法制小学校
 5月19日の午後、臨県城内を出発し幹線道路を南に走る。10粁ほどで后大禹鎮に入り左折するとそこが府底村。2007年5月に訪れた時、確か小学校は村の中程に有ったと記憶していたがなかなか見つからない。村は新しい建物と廃屋が混在した姿に変貌し以前とはまったく変わっていた。村中を走ったがヤオトン校舎は見つからない。学校はこの辺りかと車を止め村の人に聞くと、すぐ先の黄色い建物を指差してくれた。そこは新しい二階建ての黄色いビル。入り口に「府底村村民委員会」と「共産党府底村支部」の看板が二つのみ。前に里子を訪ねた時に全校児童と一緒に写真を撮った「府底村法制学校」の看板が無い。
 入り口から声を掛けると中から2,3人の青年が出てきた。馬さんが里子の事を聞いてくれたがまったく分からないという。そして「今日は学校は休み」、「先生も児童も居ない」と無愛想な返事で取り付く間もなかった。考えて見れば10年も前の小学校のことだ、青年達が知らないのも無理はなかった。校庭に入り建物を眺めたが、昔の面影はまったく無く、以前とは違った場所に立て直したように思えた。
この学校が「法制学校」と呼ばれるのは、政府・共産党関係の建物の中に有るからなのか、定かでないが何かそんな気がした。


*鐘底小学校
 翌20日は共青団の馮委員が案内してくれた。まず車趕郷にある鐘底小学校に向かった。着いてみると、以前の学校とは場所も校舎も違っていた。2000年9月に訪れた学校は村外れの小高い丘にあり、頑丈な塀に囲まれたヤオトン校舎であった。新築された学校は村の中にあり、校門に金色の「鐘底寄宿学校」の看板。校舎は本格的な三階建ての教室と平屋の建物になっていた。平屋は寄宿舎なのか、すっかり変わった学校になっていた。校門まで出迎えてくれた趙乃平校長は30代か若く見えた。職員室に招かれ新しい学校の概況を聞いた。
 近年多くなった近隣の廃校となった児童が在学するようになり、全校児童は約300人に増加したと話してくれた。その後、趙校長は自分は尚趙小学校を卒業したという。尚趙村は郷の外れで臨県と方山県との境にある辺鄙な村。前に来た時その学校に里子が一人在学していたが余りにも遠く悪路で行けなかった。趙校長は里子が就学する前に小学校を卒業しているので「失学児童支援」事業のことは知る由も無かった。
 その話を聞いたあと、前の学校に在学していた二人の里子について聞いた。やはり趙校長も先生方も「失学児童支援」事業は誰も知らなかった。ここでも職員室にいた人たちが既に退職した先生や友人にスマホで聞いてくれたが、やはり里子の消息は分からなかった。
 2000年9月、里子を訪ねた当時の学校は頑丈な分厚い塀に囲まれ、教室は崖に穴を掘ったヤオトン。そこは1936年以後、かつての日本軍がこの地に侵攻しこの学校を占領し2年間にわたり司令部を置いた場所だ。この歴史があってか、私が学校を訪問し里子に会った時、崔文強校長はじめ先生方は非常に感動し歓迎してくれた。
 帰国後、崔校長から感謝の手紙をいただいた。そこには、鐘底学校に日本軍が侵攻した時の情況が詳しく書かれていた。(里子を訪ねて、1参照)
 趙校長はその旧校舎に案内してくれた。見覚えのある校門をくぐると派手なペンキが塗られたヤオトン教室。その風景はかつての学校の面影はまったく無く、山村に不似合いな建物となっていた。派手なピンクやブルーの色は中国人好み。趙校長は廃校のあと南向きのヤオトンを幼稚園に改装したという。その庭にこれも派手な色の玩具や遊戯器具が並び、その横に奇麗な色の布団が干してあった。幼稚園に利用されない残ったヤオトン教室は取り壊されていた。かつて里子と先生と一緒に写真を撮った校庭には、工事用の青いトラックが入っていた。
 農民の居ない廃村の無惨なヤオトン、廃校となり荒れ果てたヤオトン教室を見ていると、何故かここに人間が住んでいたとは思えず、なにか動物が棲んでいたと言うか、飼われていた穴倉に思える風景だ。それは人間社会に容赦なく押し寄せる文明に見捨てられた姿なのか。これが有史以来延々と営んできた黄土に住む農民社会の末路なのか。
街に出た農民は果たして幸せなのか。その答えは何時になるのか。また有るのか無いのか分からない。