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その後の里子を訪ねて(3)

*樹人学校
 永豊学校のある玉坪郷には、もう一校里子が在学していた樹人学校が有った。しかしその学校の写真は有るのだが、訪問した記憶が無い。写真は校門だけで里子は写っていない。すると永豊学校と同じ日に訪ね、この樹人学校も休校だったのかも知れない。永豊学校からは余り離れていないと思い地図を見たが、樹人村は記載されていない。そこで臨県志で調べてみたが「郷・鎮村区劃」表にも樹人村の名は載っていない。その資料には県内にある主な村が記載されている。その中に自然村と言うのが有る。その場所は地図の中に黒丸印で示され村名も付いている。資料の説明では、自然村は「村民委員会」が無いと書いてある。日本でいう「村役場」は無いが住民は生活している村なのか。その自然村は1250余村で既に無人となった村も有ると書いてある。地図には全ての自然村が記載されていないので、樹人村は資料にも地図にも載らない極小さな村なのだらう。そこで今回新しく入手した2004年版の地図を見ると、新たに赤丸印の移民自然村というのが記載されている。推測するに、この村は過疎化が進み最近無人となった、共青団の李書記のいう「廃村」となった自然村のことだと考えられる。
 そんな資料にも地図にも無い村に育った里子に興味もあったが、李書記から廃村・廃校と聞いて訪ねることを止め、陽泉郷にある次の学校に向かった。
*陽泉学校


 この学校には、2007年の春と秋に二度訪問していた。最初に訪れた時、里子は一人と聞いていたが校長先生は二人という。一人はこの村で最も貧しい家庭の子、もう一人は両親が盲目の家庭で今日は休んでいると話してくれた。(№5、物乞い参照)
 次に訪れた時は、日も暮れかかった夕方で授業は終わっていたが、里子たちは学校の寄宿舎の入っていたので、前に休んでいた両親が盲目の里子に会えた。そして両親が住むヤオトンも訪ねることができた。(№48、里子を訪ねて(6)参照)
 今回は三度目の訪問。5月19日の午後、玉坪郷から東に広がる黄土高原にある陽泉郷に向かった。
 30分ほど高原を登って行くと、見晴らしのいい頂に出た。前に訪ねた里子のヤオトンはこの辺りかと車を止めると、右側の崖下に通じる見覚えのある細い道。確か盲目の両親が住むヤオトンに通じる道だ。しかし雑草に覆われ人が歩いた跡がない。辺りを見渡すと来た道の先に集落が見える。近づくと木陰に数人の老人が屯している。馬さんに盲目の夫婦を探していると聞いてもらうと、直ぐに分かったのか立ち上がった一人が坂の下に向かって怒鳴った。暫くすると少し下がったヤオトンから杖をついた老人が一人登って来た。見覚えのある顔だ。目は見えなくとも良く覚えていてくれ感動の握手。奥さんは?と聞くと、今は体調が悪く外に出ないという。里子の李文斌は陝西省で元気で働いている話。なぜかホットした。
 周りに集まって来た村人はみな年寄りばかり、小学校は廃校と聞いて来たがやはり子供の姿は見当たらない。児童に土産と持ってきたエンピツなど渡せる子は居なかった。李夫妻に土産を渡し、周りの人にはタバコなどプレゼントして別れた。
 帰り道で、廃校になった小学校を写真に撮りたいと李書記に頼んだ。彼は初めて来た村で何処か正確には分からないと言ったが、多分この辺りと車を止めた。そして谷を隔てた向こう側にある幾つかの建物を指さしてくれた。しかし私には学校らしい見覚えのある建物は見当たらなかった。廃校の後に改造されたり、何かに利用されているのだらう。この村もすっかり変わっていた。あの辺りかと何枚か写真を撮って来たが、陽泉学校の面影の有る建物は写ってはいなかった。
 「中国の小学校」について、地方によって(小)の付いた学校と、(小)の付かない学校が有るが、その区別について理由は分からない。