~ 60 61  62  63 64  65 66 67 68 69  70 71
その後の里子を訪ねて(10)


*里子の育った山村を訪ねると、村人が家の外でメシを食っている。これは今や習慣になっているのか。立って食ってる人、歩きながら食っている人も良く見かける。他人の目を気にしないのか、それとも気を引く為か、中国ならではの大らかな感じの風景で、これは写真にとって格好の被写体だ。

*米や小麦の取れない地方の主食は「玉米」(トウモロコシ)や「山葯蛋」(ジャガイモ)であった。今は主食の麺や饅頭に小麦粉が使われているが、それが庶民の口に入ったのは解放後のことと言われている。しかし、それが地方の農民の食生活に普及したのはそう古い事ではない。私が良く訪れる希望小学校がある五台県の村では、小麦は他の穀物に比べ高価で来客用だといい、今も雑穀の入った飯、麺、饅頭、それにジャガイモを主食としている。麺を食べた後もジャガイモを食わないとメシを食った気にならないという人が多い。

*双塔小学校

 この学校がある双塔村は、前に訪れた武家溝村に接している。私が初めてこの村の小学校を訪ねたのは2004月の暑い日の午後。学校で3人の里子と会った後(里子を訪ねて、7参照)私は、1948年3月この地に毛澤東と解放軍幹部が宿泊した旧居を村人に尋ね廻った村だ。

 今回は二度目の訪問。学校は村の奥まった所にある。前に訪ねた時は学校に通じる道が下水管でも埋設するのか、掘り繰り返されていて車が入れなく歩いて行った。今回その道は広くなりきれいに修復されていた。

 学校に着くと、薛学勤校長が校門の前で出迎えてくれた。職員室で待っていた先生方も快く対応してくれた。薛校長が現在の児童数は当時に比べ増えて150人、先生も17人と説明してくれた。私が里子の名簿を見せると、一人の先生が里子を教えたことがあると言った。しかし十数年前のことで里子の名は覚えていなかった。先生方は直ぐに里子の消息をスマホや携帯電話で探し始めてくれた。

 直接里子と連絡は取れなかったが、家族や友人から2人の消息が分かった。里子「薛孝兵」は結婚し、今は炭鉱で働いているが、どんな仕事か詳しいいことは分からないと。里子「薛軍鋒」は太原市か西安市で働いていて、義歯を作る仕事をしていると。もう一人の里子「杜永美」は名簿では「女」となっているが「男」である、しかし消息は分からないとのことであった。私は、皆どんな青年になっているか知りたかったが、里子は生まれ育った故郷の村を離れてしまっていた。

 先生方と写真を撮った後、私は1948年に毛澤東と解放軍がこの村に滞在した旧居を訪ねたいと、お願いした。一人の先生がその場所はこの近くと親切に案内してくれた。

 前に来た時、私はこの旧居の事を村の人に聞いたが、誰一人知っているという人は居なかった。その時は、いくら60年前の出来事であっても皆が知らないとは考えられなかった。

 私は、中国人は「見知らぬ他人には本当のことは言わない」と聞いていた。今迄にも、このような事は経験していたので、こんな小さな村だ、誰か知っている人は居ると思っていた。

 何時も山西省を廻るとき、同行してくれる運転手の崔さん、彼も知らない道を尋ねる時は一人に聞いた後も少し離れて別の人に聞いている。ちなみに、今回の臨県郊外のガソリンスタンドで給油のあと太原に行く高速道路の入り口を聞いた。店員に教えられた方向に数粁走って道が違うことに気が付き引き返した。そして崔さん、そのガソリンスタンドの前を何も無かった顔で通過した。良くあることなのだろう。

 毛澤東旧居跡に案内してくれる先生に着いて曲がりくねった狭い路地を行くと、その場所は思っていたより近くにあった。修復中なのか、門の前の空き地に砂利やセメントが散らばり、手押し車やスコップも置いてある。高さ2米ほどの新しいレンガ塀がその一角を囲っている。門の看板に「毛澤東同志路居」その下に[1948.3.26.~1948.3.26]と書かれている。中に入ると「影壁」(直接内側を見られない為の壁)の前に大きな石が二段積まれ、その上に「中央后機関旧址」の看板が立てかけてある。その奥に廻るとヤオトンが一棟あった。この辺りは平地なのでヤオトンは「独立」造り。その前庭に大きな水瓶が何本も置いてある。真ん中のヤオトン入り口に「毛主席宿処」のプレートが張りつけてある。その正面も修復され奇麗になっている。とりあえずその前で写真を撮る。屋内を覗くと薄暗く良く見えない。見渡すも旧居なら何処にでも有る机やベットが無い。倉庫か物置き場のように雑然としている。良く見ると土間に敷かれたアンぺラの上に4,5人が、マグロを並べたように横たわっている。室内を修復している労働者なのか昼寝の真っ最中だ。この遺跡も、このゴロ寝している人たちに守られているのだ。

 ここが長年探していた場所だと思うと、いとも簡単に来る事ができ何か調子抜けの感であった。行掛けの駄賃で夢が叶った。