前号に書いた「小学校」について(小)が付いても、付いて無くとも小学校に変わりはないので何方でも良いのだが、以前から気になっていた。そこで「失学児童支援」事業に関した山西省からの資料を調べてみた。
支援当初から訪れた学校の児童名簿と写真を見ると、思っていたより多くの「学校」名が有った。最も多いのは「学校」で、「小学」、「小学校」と続き「寄宿制学校」、「寄宿制小学」も有る。共青団からの資料だと「学校」だが、訪れてみると「小学校」の看板とか、村の名前ではなく訳の分からない「名称」の付いた学校も有った。なぜなのか、その時に聞いてみれば良かったが今となっては遅い。
ちなみに各種の名称を挙げてみると、「学校」、「小学」、「小学校」、「寄宿制学校」、「寄宿制小学」、「寄宿制小学校」、「希望小学」、「法制学校」、「育苗小学」、「九年制学校」等がある。実際に訪れて見ると門柱は「○○学校」で、校門のアーチには「○○小学校」の看板が掲げられている、これは単なる手抜き工事なのか。
また校門のアーチに「校学○○」と右から書いた学校が有った。これは旧い時代の書き方であるから、あえて左から書かなかったのは解放前からの伝統ある学校なのか、それとも間違いなのか。何事も、お上の「決め」より自分たちの「やり方」で勝手にやっているのが面白い。
「寄宿制学校」が多いのは、学校の無い僻地の山村から児童が在学できる為なのだろう。ある学校では休校日に帰宅すると、家まで歩いて二日もかかる児童がいると聞いたことがあった。日本でいう全寮制の様に、児童が家庭の事情で通学できなく、全員が寮生活している学校が有るのか、次の機会に詳しく聞いてみたい。
*李家坡底学校
この学校は玉坪郷の中でも比較的大きな村にあり、近隣で廃校となった村からも児童が通学していて全校生徒は170名と多く、校名も新しく李家坡底「徳佛希望小学」となっていた。校舎も新しく校庭も広い。多分かつての「希望工程」事業で援助されたのだろう。旧名の学校には里子は一人在学していたが、私は今回が初めての訪問。
職員室にいた数人の先生が里子の話を聞いて対応してくれた。以前からの先生は一人いたが「支援」の記憶は無いと言う。他の人はみな新しくなってからの先生で里子が在学していた時代を知っている人はいなかった。しかし先生方は当時在職し転勤した先生とか、既に退職した先生を探し電話やスマホで連絡を取ってくれた。また里子が住んでいた近所の人や同級生にも電話し情報を集めてくれた。しかし誰からも里子を知っている返事は来なかった。先生方には授業も有ったと思うが、みな時間を忘れて東奔西走してくれたのだった。
里子の消息は分からなかった。しかし都会から離れた地方の山村だからか、15年も前の「支援」の事を親身になって協力してくれた先生方の姿を見て、大袈裟に言えば毛澤東の「国際主義」の精神なのか、いまだ人民の人情は衰えていなかった。私は考えてもいなかった出来事で涙が出るほど感動した。そしてこの様な場面はこの地方だけで終わらなかった。
児童たちの土産にと、協会の役員が寄贈してくれたエンピツは数千本。この学校の児童に200本をプレゼント、
先生方にはチョコとタバコを渡して「再見、再見」。 |