*居民小学校
県城から三交鎮に入った幹線道路は、そこから南西に向かいその先にある磧口鎮に入る。そこで黄河にぶつかり、道は黄河に沿って南北に分かれ細い道路になる。今回の調査は、その先にある郷鎮の村まで足を延ばすことにした。
この三交鎮では街の中にある学校から訪ね始めた。前号で書いたように残念にも西坡小学校は幼稚園になっていた。
次に訪ねる居民小学校は、この鎮で里子が在学していた10校の中の一つで里子は4人が在学していた。馮委員によると学校は以前よりも規模が大きくなっていると。
5月20日の午後に訪ねた。学校に着いて見ると狭い校庭に平屋の校舎、それが平行に並んで何棟か建っている。職員室のある棟はヤオトン造りだ。校長室に入って行くと校長は郝生澤と自己紹介し「好久不見了!」と私のことを知っていた。握手しながら15年も前に高家塔小学校で二度も会っているい言う。その頃、高家塔小学校には5~6人の先生が居たが、皆な地味な色のジャンバー姿。私はその記憶だけで先生方の名も顔も覚えていなかった。
現在、この学校の児童数は約540人、先生は40人で、この街も近郊の廃村となった村人が集まり児童は年々増加していると説明してくれた。
この学校には4人の里子が在学していたと、私から里子の話を出した。郝校長は里子が卒業した後に赴任してきたので、当時のことは知らないという。集まっていた先生方はすぐに4人の消息を探し始めてくれた。
私は消息が分かるまで暫く時間がかかると思い教室を見に廻った。児童たちの服装は皆カラフルで都会と変わらない感じ。休み時間なのか、それとも先生が里子を探して居ないのか、どの教室も黄色い声が飛び交っている。そんな教室の写真を撮りながら校舎を一廻りして戻ると、吉報が待っていた。
三人の里子の消息が分かったと同行の馬さん。その一人「郝佳凱」は、幼い頃父を交通事故で亡くし就学できないでいた。現在は太原市の太原戯校に在学、京劇の俳優を目指している。「楊徳華」は太原市にある医学大学に在学している。「段艶新」は陽曲大学に在学していると報告してくれた。これを聞いて私は数年前に方山県の植樹祭に行った時、
「失学児童支援」事業の責任者であった、当時の臨県共青団の王喜祥書記から「貴協会からの援助で小学校を卒業した里子が大学まで進学した」との話を思い出した。その話はこの里子達のことか、まだ他にも居るのか、期待の膨らむ旅になってきた。
私は先生方に感謝の言葉を述べたあと、児童の将来について聞いてみた。先生方は口々に都会の学校に進学した里子や卒業生は、自分達が生まれ育った土地に再び帰って来ることは無い。多くの故郷は過疎化し今や住む人も少ない。黄土の狭い段々畑以外に何の産業もない村には定住しない。地元の学校を出た青年だけが村に残り、先祖代々からの土地を守り農業を継いでいる。しかし、経済的に苦しく農業の効率化に努力はしていても現実は厳しい。地元では、後継ぎに十二分な教育を受けさせられないと、都会に出稼ぎに行く人が多い。そして最後に、先生方はこれから里子が住んでいた村や学校を訪ねても、貧しい家庭に育った里子が村に残り農業を継いでいる人は少なく、再会することは難しいだろうと話してくれた。
言われてみると、里子の親は「出稼ぎ」か「片親」か「両親のどちらかが病気」という家庭が多かった。この黄土高原の村での小規模の農業では、子々孫々貧困から抜け出せないのか。この話を聞いて、今の日本でも一旦貧乏のなるとそこから抜け出せない、巷で言う「負の連鎖」の中国版に思えた。 |
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