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その後の里子を訪ねて(11)

小さな街や村にある自由市場。そこは終日商っている市場、朝市や夜市だけの所といろいろあるが、早朝から賑やかな朝市は活気があって眺めているだけで楽しい。特に主食となる焼餅を焼いたり揚げたりする店は見ていて飽きない。小麦粉を捏ねる人、それを延ばす人、焼く人、揚げる人、売る人買う人、並んでいる人、長椅子に座り食べる人、食べる場所を探し右往左往する人、立ち食いの人、地べたに腰を下ろして食べる人、大鍋や洗面器に山積みに買って行く人。出来上がった焼餅は見るからに旨そうで、我先に集まる老若男女が入り乱れ団子になる。まるで戦場のようだ。そこから中国人の生きる逞しさが直に伝わってくる。その風景は、日替わり上演の一幕の劇を見るようだ。写真の好きな私には興味が尽きない被写体だ。私もそんな露店で油条(細長い揚げパン)を食べる時がある。揚げ立ては本当に旨い。朝食では一元も買えば十二分の量だ。
そんな自由市場を歩き廻っていると、日本では見られないと言うか、考えられない光景に出会えて楽しい。テント張りの露店で生の豚肉を並べている店が多い。その豚肉の塊は赤身より脂身が多い。中国人は脂の少ない肉は好まないという。売台の肉にハエが集ろうがホコリが飛んで来ようが、買う人も売る人も気にしていない。小さな売台で豚の半身を切り裂くオヤジさんがいた。その顔が猪八戒に見え思わず写真を一枚。その側で娘さんが豚足の毛を一本一本丁寧に抜き、それを地面に敷いた板に積み上げている。この豚足の燻製は白酒の肴には「最好」だ。
*下川坪小学校
 この学校には2002年に里子一人在学していたが、今までに私は訪れていなかった。
 5月20日の午後、訪問するとき馮委員は校名が正坡学校に変わったといった。正坡村に入り学校はこの辺りかと車を降り、道端で井戸端会議をしている村人に尋ねると、この先の路地だと指差してくれた。そこは車が入れない細い道で、幾つか角を曲がり歩いて行くと校舎が見えた。門柱に「三交鎮正坡学校」の看板。太い鉄柵の校門は閉じられ大きな錠が掛かっている。構内を伺うも人影が無い。平日だが休校らしい。以前、学校によっては10日間の授業で1日の休み。そこで日曜も授業があり平日が休校になる、と聞いたことがあった。
 帰国した後、この下川坪村について調べた。古い地図、新しい地図、臨県志と見たが何処にも下川坪村の名は無かった。昔からの小さな村で最近この正坡村に合併され、学校も吸収されたのか、村人に聞けば良かったが後の祭り。
*崔家坪小学校
 学校に着いて見ると、校舎はコンクリートの二階建て、思っていたより大きく校庭も広い。校門まで出迎えてくれた王校長、最近児童が増えて90人、先生は12人と説明してくれた。この学校には2002年に5年生の里子が1人在学していた。校長が当時から居る先生を呼んでくれた。その先生は里子の担任で無かったが、卒業後の消息を知っていた。里子「崔菊菊」は既に結婚している。今は三交鎮政府の近くに住んでいるが、詳しい住所は分からないと話してくれた。
*前陡泉小学校
 この学校がある前陡泉村は、三交鎮から省都の太原市に通じる幹線道路を東に5粁ほどの所にある。学校に着いて見ると、ここも校舎は本格的な二階建て。別棟の寄宿舎もある。鎮に近い村の学校は規模が大きくなっている。それは鎮から離れた辺鄙な村が廃村になったからか?
 薛明智校長が児童は200人以上、先生は12人と説明してるれた。ここにも5年生の里子が1人在学していたが、先生はみな新しい方で当時を知っている人は居なかった。ここでも八方手を尽くして探してくれたが里子の消息は分からなかった。
 今日一日、黄土高原の村と鎮にある10校を訪問できた。その他、廃校と分かった5校の内2校を見て廻り、3校には行けなかった。朝から暑く炎天下の強行軍であったが、それなりの成果は得られた気がした。