*堯子坡小学校 ②
この学校の校舎は、校庭を中に挟んで二棟が南北に建てられている。南側が二階建て、北側が平屋。職員室のあった北側の校舎が黄色い塀に囲まれ廃屋となっていた。かつて数百人の児童が集まってくれた校庭に人影は無く閑散としている。五星紅旗が翻っていた国旗掲揚のポールは傾き倒れかけ昔の面影はまったく無かった。
校門のある南側の校舎は幼稚園になっていた。教室に入って行くと先生と数人の幼児が遊んでいる。私が以前の小学校に里子を訪ねて来たことを話すと、当時の校長先生は退職した後も健在で、この近くに住んでいるという。それを聞いた趙校長が直ぐにスマホで連絡してくれた。
教室で待っていると、見覚えのある呂引弟校長が駆けつけてくれた。16年ぶりの再会に「ニーハオ」、「ニーハオ」と固い握手。彼女の髪は少し白くなっていたが元気な
様子で、前に来たと時、一緒の女性は白い帽子を冠っていた、と当時のことをはっきり覚えていた。私も呂先生からの手紙は今も大切に持っている・・・など、しばし昔話に花が咲いた。
里子の消息については、皆さんの支援で全員が卒業することができた。今は皆が結婚していると、そして里子の「張麗」は幼稚園の先生になっている。他の子について細かいことは分からないが、多くの里子は隣の離石市に行き働いていると話してくれた。
話を聞いたあと、分かれる前に呂先生を囲んで写真を撮っていると、校庭が騒々しい。外を見ると窓に村人の顔、顔。ガラスに頭を付け私たちを覗いている。教室を出て行くと、一人の老人が私を知っていると手を取った。私は覚えていなかったが、前に訪れた時も多くの村人が私たちを追って校庭に入って来ていた。その人たちとも握手、握手で「再見」「再見」。皆農民なのか、皮手袋のようなゴツイ手の感触は今忘れてはいない。
*西坡小学校
5月20日、昼食のあと三交鎮を訪れた。この鎮の繁華街は、臨県内では県城に次いで大きく賑やかで、県内外の通じる幹線道路が交わるターミナルになっている。
この鎮には、2000年度から10の小学校に24人の里子が在学していた。小学校は街から差ほど離れていないが、私は訪れていなかった。
2004年4月、協会の「富士見市民友好訪問団」が三交鎮を訪問した。その時、私は体調が悪く参加できなかった。その際、訪問団は三交鎮で里子が在学する学校の責任者と会談した。その時の資料によると、この学校には2人の里子が在学している。その里子は兄弟で姉は5年生、弟は3年生、それに未就学の子と母親の4人家族。父親は去年出稼ぎ先の事故で亡くなり、貧乏な家庭とあった。
三交鎮では「失学児童支援」の支給額は、入学から卒業まで1年生は600元、2~5年生は400元~500元で、その額は家庭の事情で多少異なっている。ちなみに、他の郷鎮では1年生600元~700元、2年生450元~600元、3年生450元、4年生300元、5年生150元が標準で地域によって多少異なる。
この「失学児童支援」事業は「里親=里子制度」と呼び、「里親が1口、6000円を寄付(何口も可)、それを里子1人に卒業まで支給」するもの。臨県では小学校は5年制。家庭の困窮で途中退学する児童にも支給し救済、また途中入学した児童にも支給する。
この事業は臨県共産主義青年同盟(共青団)が基金を管理、県の未就学児を調査し里子を決めている。学費の支給については、1年生の場合の600元は卒業まで5年間の額。それを5等分し1年間は120元、更に分割し半年毎に60元を渡している。
この学校も廃校と聞いたが、校舎は残っていると聞いて見に行った。街から郊外に出ると辺りは一面の農地。しばらく走るとその先に学校が見えてきた。馮委員に聞くと校舎は元のままという言うが、着いて見ると奇麗に塗装され、校舎の上に大きな「幼稚園」の看板。中に入り先生に小学校時代の事を聞くも、当時を知っている人は居なかった。無理のない話であった。仕方なく校門と校舎など何枚か写真を撮った。
校門の前に広がる畑の一角に、新装なった幼稚園の内容と園児募集の派手な馬鹿でかい看板が立っていた。この農村に不似合いな異様に目立つ看板が、私には何か急速に変わって行く農村社会の未来を暗示している様に思えた。
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