里子が育った地方はみな辺境の山村。そんな村と学校には今も古き時代の面影と風習が残っていて、どの村を訪ねても日本では味わえない楽しい体験や面白い風景に出会う。それは、その地方では当たり前のことで、別に珍しくはないのだが、山西の好きな私には興味が尽きない。そして、それが食い物にまつわる事の多いのがいい。今は写真が無くなってしまった話もあるが、忘れられない思い出を幾つか書いてみる。
*山村の学校で。真夏の授業は暑くて薄暗い教室より外の方が涼しく快適だ。校庭の木陰で勉強している。地面をノート代わりにしている子もいる。机が無くとも皆んな楽しそう。眺めていると先生が大きな丼に白湯を入れて来てくれた。
*村に入って行くと、林の中で何人も腰を下ろし丼メシを食っている。何時もの事なのか、私たちが眺めていても動かない。食い終わったら、その姿勢のままでその場に出すモノを出して帰るのか?確認はしていない。
*村の入り口で。私たちが来るのを知っていたのか、それとも毎日なのか、何人もが腰を下ろし朝日を浴びてメシを食っている。ワイワイ喋りながら皆で食うと旨くなるのか。眺めていると「食べるか」と話しかけてくれるのが嬉しい。
*門の前や道端で座り込みメシを食っている風景はよく見かける。灯の乏しかった昔からの習慣が残っているのか、今でもヤオトンは裸電球一つ。薄暗い屋内より外の方が気分もいい。それとも、メシが食えなかった時代の名残りか。
*学校に行くと、私たちを追って朝メシの丼を抱えた村人が入ってくる。そんな大人に混じって子供も長いハシで食いながら着いてくる。何を食っているのか丼を覗き込んでいると、オバさんが「食べな!」と、家から小さな丼を持って来てくれた。麺の上に肉ジャガのような具が乗っている。朝メシのすぐ後であったが、麺に目のない私には何時何処で食っても旨い。
*武家溝小学校
三交鎮の居民小学校を訪ねた後、南に向かう幹線道路を走り街を抜けると、すぐに武家溝村に入った。かつてこの学校にも2人の里子が在学していた。しかし、今まで私はこの道を何回か往復していたが学校には寄っていなかった。
初めて訪れたこの学校は今まで廃校となった校舎やヤオトン教室を見てきたこともあり、新築間もなく立派に見えた。
鎮に近いこの村にも、地方で廃村となった村人が移り住み、児童も多く校舎は三階建て、奇麗にオレンジ色が塗られている。広い校庭の片隅に卓球台が置かれている。体育館は無い。この臨県で多くの学校を見てきたが体育館の有る所は無かった。どだい黄土高原の学校は校庭など有って猫の額。体育館などお話にならない。
校門まで出迎えてくれた高栄福校長に案内され職員室に入ると、私の来校を知らされていたのか、すでに数人の先生が待っていてくれた。早速、里子の話をすると15年前に在学していた里子「武金芳」を覚えていた先生がいた。しかし、卒業後の消息は分からないという。ここでも、高校長はじめ先生方はスマホや携帯電話で退職した先生や里子の同級生を探してくれた。私は長時間にわたり連絡を取り合ってくれている先生の授業が心配になってきた。
そして小一時間、その甲斐あってもう一人の里子「武浩霞」に連絡がついた。こんな辺境の地でも文明の利器であるスマホが威力を発揮した。彼女は地元の学校を出ると太原市に出た。今は山西大学にある商務学院で勉強していると。同行の馬さんは山西大学の老師、すぐに電話してもらった。彼女は「小学校時代の学費援助は本当にありがとう、感謝してます。(非常感謝!)もう当時のことは良く覚えていないが、思い出したら連絡します」と話してくれた。私は思ってもいなかった朗報で、先生方には感謝の言葉も無かった。
この感動も生涯忘れられない出来事の一つになった。 |
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