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その後の里子を訪ねて(6)

車趕郷は臨県の東の外れにある。県の中では小さな郷だが里子が在学していた学校は9校と他の郷鎮に比べると多かった。そして学校のある村の大半が街から遠く離れ、道路事情も悪い黄土高原にあった。
 支援を始めた16年前に訪問した時、雨の後は崖崩れの箇所が多く、道路が寸断されているかどうか、行って見なければ分からないと言われた。それで訪問できたのは街の近くにある鐘底小学校、堯子坡小学校、それと高原の頂にある王家山小学校の3校だけであった。
 今回の訪問で共青団から車趕郷では鐘底小学校以外で里子が在学していた学校は全て廃校となった。中には校舎も残っていない所もあると知らされた。多分それ等は昨日まで何個所か見てきたヤオトン教室のように荒れ果てているか、崩壊しているのだろう。
 今回の日程では時間も限られていた為、この車趕郷では廃校となっていても確実に残っている学校のある村を訪ねた。


*桃塔小学校
 5月20日の午後。鐘底小学校を訪問した後、廃校と聞いていた桃塔小学校を趙校長が案内してくれた。支援当時、この学校に里子は1人在学していたが訪れていなかった。ここは街に近いこともあってか、思っていたより校舎は大きく、二段造りのヤオトン教室にコンクリートの教室もある。校庭も広くそこに運動器具も設置されていた。この辺りの村にしては大きな学校のように思えた。やはり校門は閉ざされ人影は無かった。しかし、荒廃した感じはなく、今日は「日曜で休校」と思はれる情景であった。この村にも過疎化の波が押し寄せてきていたのだ。



*王家山小学校
 この学校も廃校になっていると聞いた。黄土高原の頂にある学校に里子は1人在学していた。2000年9月に訪れたときは棗が実る季節。高原の段々畑にはトウモロコシが生い茂り、曲がりくねった道をジグザグに登って行った。道の端には農民の住むヤオトンが並び、庭にある棗の樹は熟した紅と緑のまばらな実をつけていた。そんな王家山村の道を登ると学校があった。そこには水道も井戸も無かった。児童が交代で麓に有る水溜からバケツで水を汲み天秤で担ぎ上げていた。里子と面会したあと、父親が庭から取った棗を袋一杯担いできてくれた。(里子を訪ねて、№1参照)。その王家山村は今どうなっているか。里子は、親は、ヤオトンは、棗の樹は・・・訪ねて見たかったが、そこは街から遠く悪路で断念した。やはりこの土地も村民が減少し、子供が居なくなってしまったのか。
*鳳趐小学校、胡家圪小学校、尚趙小学校、坪墕小学校、杜家溝小学校     
 これ等の学校に里子は在学していたが、どこにも訪問はしていなかった。今回、共青団の馮委員から廃村になった所も有り、学校は全て廃校となっていると説明があった。その理由は、村は辺境の地で交通が不便、黄土の段々畑で狭い農地、現金収入が少ない、街に出て稼ぎ、そこで子供を勉強させる等々で、どの地方の村も状況は同じ様に思えた。どの学校も見に行きたかった。それは村を訪ねると、土着の人から何か里子の事が聞けるとか、村の人と何か素敵な出会いがあると思えたからだ。しかし残念ながら行けなかった。
*堯子坡小学校 ①
 この学校には1999年から里子が在学し始め、その後徐々に増え15人が卒業して行った。初めて訪れた2000年9月、学校に着くと校門で出迎えてくれた呂引弟校長は、全校生徒を校庭に集め私たちを紹介してくれた。(里子を訪ねて、№2参照)
 今回は5月20日桃塔小学校を見た後、ここも趙校長が案内してくれた。そこは街から差ほど離れてなく大きな学校であったが、既に廃校となっている話。学校に着くと見覚えのある観音開きで鉄板の貼ってある大きな校門。その門を押し開き中に入ると校舎は以前と全く違っていた。