*李家圪台小学校
2001年9月、臨県の県城に近い李家圪台村に里親の本多さんと里子を訪ねた。城内を南北に通る幹線道路を南に数キロ走り右折。畑の中を行くと流の無い川に出合う。その川沿いを上流に走ると、両側から黄土高原が迫り畑が少なくなると右側に学校が見えてきた。
生憎その日は授業は終わっていた。職員室の先生に里子の孫毛毛を訪ねて来たと告げると、先生はその家は近くで、高原の中腹にある窰洞(ヤオトン)と教えてくれた。来た道を戻るとすぐに分かった。しかし高原を登る道は狭く車が入れない。山西人が「羊腸路」と呼ぶジグザグの道を登って行くと三連の窰洞に出た。手前の窰洞には鍬や鎌があり倉庫のようだ。真ん中の窰洞に簾の暖簾が掛かっている。「ニーハオ」暖簾越しに声をかけると、簾を分け子供が三人顔を出した。本多さんの里子の毛毛は男の子、姉と妹の三人姉弟だった。里親が会いに来たと言うと、毛毛は父は野良仕事でいない、直ぐに呼んで来ると下の方に走った。
私たちの訪問に皆大喜び。父親によると、今は家族は四人、母親は数年前に病死。それまで学校に通っていた長女が母親変わりとなり、家事や農作業の為に退学した。弟の毛毛と妹の美玲は貧乏で就学できないでいたが、昨年失学児童の援助で毛毛が二年に、美玲が一年に入学できたと話してくれた。
窰洞の中は、天井からぶら下がった裸電球が一つで薄暗い。大きなオンドルが居間で寝室だ。台所用品の他に家財道具らしき物は見当たらない質素な部屋。見るからに貧困家庭の感じだ。
帰る時、父親が土産にと袋に豆を入れてくれた。それは日本では商品にならない不揃いな粒。白地の赤黒い斑点のインゲン豆だ。この地方では米や小麦は取れない。先祖代々から小米(粟)、玉米(とうもろこし)、高粱、豆、山葯蛋(馬鈴薯)などが主食だ。このインゲン豆は、貧農家庭の里子が学校に行かずに畑仕事で収穫した食糧だ。豆に目の無い私は有り難く戴いたが、かつて趣味の篆刻で彫った四字成語の「菽水の懽」の故事を思った。それは「豆と水で貧しく暮らしていても親孝行する」という話だ。
因みに、この地方に白面(小麦粉)が入って来たのは解放後で、一般には1980年頃から普及し始めた。現在は垃麺、餃子、焼餅、饅頭が主食だがその歴
史は浅い。それまでの主食は、玉米を砕き、小米や高粱とお粥にし、それに雑豆(大豆、インゲンなど)、山葯蛋を加えた物であった。また雑穀を面(粉)に加工し饅頭、麺、焼餅も主食にしてきた。(臨県志)
山西省の僻地を旅していると農民から土産にと南京豆、粟、豆などを戴くが、時には生のとうもろこし、南瓜、馬鈴薯など大きな袋に入れて貰うことがある。そ
れ等を私は「気持ち」と一緒に有り難く頂戴してくる。生ものは山西大学の留学生に上げると喜ばれるからだ。
それから3年後、里子を訪ねる旅で再びこの李家圪台小学校に行った。里親の本多さんも同行していた。学校に着くと授業は終わったばかり、狭い中庭の校庭で児童が遊んでいる。職員室で先生に聞くと、里子の毛毛は卒業した、美玲は元気で通っている。今日は帰ったと教えてくれた。先生と児童に土産の文房具とサッカーボールを上げると、直ぐにボールを持った子供たちは校庭に走った。珍しいボールに黄色い声を上げ蹴り始めた。しかし四方を校舎に囲まれた狭い広場、ボールが飛んで教室の窓ガラスを割らないか心配になったが、後の祭りだった。
直ぐに私たちは里子の家に引き返した。着くと窰洞の前には友達なのか近所の子か何人も集まっていた。記念の良い集合写真が撮れた。
父親がいうには、長女はもう大人になった。いま嫁入り先を探していると。姉より背が高くなっていた毛毛は家の仕事を手伝っている。美玲も学校が好きで勉強も頑張っていると話した。見違えるほど大きくなった毛毛を見ながら本多さんは笑顔で話しかけていた。
2006年になると、臨県に里子が在学する小学校は61校となり、里子は15郷・鎮の60村で183名。県城内は貧困家庭が少ないのか1校で3名となっていた。
臨県に行くには、成田から北京か上海を経由する。現在は太原まで国内線があるが以前は夜行列車を利用した。空路は北京から1時間、上海から2時間で着く。
ある年上海に宿泊した折、そこのガイドが話した事を、私は山西省の土地を踏むとかならずのように「黄色い大地」を思い出す。その太原の郊外にも黄土高原があり窰洞住居がある。その太原から車で数時間、里子の住む地方は窰洞住居が多く窰洞小学校もある。現在もその窰洞は裸電球一つ、みな薄暗い中で生活している。上海のガイドは「上海は不夜城。中国の玄関であり顔である。例え電力が不足しても地方都市を停電させて電気を上海に送る」と言った、その言葉だ。このガイドに象徴される、中国の経済的格差、社会的格差、思想的格差は都市と地方の格差に具現されている。これから一体どうなるのか。
近年、日本も「世界有数の貧乏大国」と言われている。日本人の私が考えても始まらないか。
出来ることしか出来ない「里子を訪ねる」旅はまだ続く。 |
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