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里子を訪ねて (13)

*樊家山小学校

2006年6月、協会の須藤会長と私二人で小学校を訪ねた。この樊家山村は黄土高原の招賢鎮の外れにある。鎮は臨県の県城から幹線道路を南に一時間ほど走った所にある。この地方では比較的大きな街で、多く炭鉱があり栄えていると聞いていたが、街に入って行くも人影が少なく活気がない。ひっそりとしている街の中で一軒だけ大きな音楽を響かせている店があった。近づくと飯店。昼飯にと中に入り店員に街の様子を聞くと、数日前に炭鉱で落盤事故があり、多くの労働者が犠牲になったという。

 昼飯は例によって垃麺を注文。本場の刀削麺を食べたあと小学校に向かう。道はすぐに高原に入り登り坂となる。九十九折の細い羊腸路を登る景色は私には最高の旅気分。更に登って行くも高原に家も人影もなく、見渡す限りの段々畑が続いている。

 そんな道を走って行くと前方に谷間が現れた。近づくと小さな木造の橋が架かっている。しかし中程の轍に泥水が溜まり車が通れない。眺めていても埒が開かない。そこで皆、車から降り近くの崖から石を運び窪みに投げ込んだ。暑い炎天下、汗を流しながらの重労働であったが、何とか渡ることができた。こんな道中が心配になったのか横にいる須藤さん、「何処にも人が見当たらない、こんな山奥に学校が有るのか」と言い出した。この黄土高原に住む農民の家はみな窰洞(ヤオトン)だ。農作業を終えると暑い日中は家に戻り、畑に人の姿はない。そして「本当に里子に会えるのか」と呟き、信じられない様子。私はこの様な場所にある小学校を何回となく訪ねていたが、須藤さんは初めての経験だ。私が「大丈夫、心配ない」と連発する道中となった。
 その内、高原が開けて来て前方に白い建物が見えてきた。昼飯を家で食べてきたのか児童が二、三人小学校に向かっている。校舎は狭い山頂にL字形に建っていた。笑顔の戻った須藤さんと職員室へ、校長先生に里子を訪ねて来たと話をすると、里子は8名居るといい、校庭に全校児童を集めてくれた。生徒は1年生から5年生まで100人以上という話に須藤さんビックリ顔。記念写真を撮ったあと、教室に戻った児童の授業を参観。すると、この小学校に似合わないパソコンの並んだ教室があった。先生はこれは児童の教材だと言い、そしてこの近くに住む日本人もこのパソコンを使っているという。それを聞いた須藤さん、その日本人に会いたいと言ったが、今日は来ないという。そこで先生から名刺を渡してもらうことにした。黄土高原の奥にも教育の近代化は着実に来ていた。

 帰国後、しばらくすると樊家山村に住み、小学校のパソコンを使っている日本人から須藤さんに電話が入った。その人は大野のり子といい、富士見市日中友好協会にお願いがあるのでお伺いしたいという。そこで私は会長と二人で話を聞くことにした。初対面の大野さんは小柄だが芯の強そうな感じの中年女性。

 大野さんは2003年、中国旅行で偶然に立ち寄った山西省臨県で、ある老婦人と出会った。「どこから来たの?」と問われ、大野さんが日本人と分かると、その老婦人は憤怒し激しい言葉を言った。そのことで大野さんは、この地方は日中戦争のさなか三光作戦によって多くの犠牲者が出た村であった事を知った。そこで2005年、この村に転居し日中戦争で生き残った犠牲者の取材を始めた。そして、この二年間で記録した証言や写真を纏めた展示会を企画し、日本各地で開催する計画をしている。富士見市でも展示会を開いて欲しいとの話。須藤さんは二つ返事で協力したいといい、協会の事業として取り組んだ。

 2007年9月8日~16日。富士見市中央図書館で「紅棗のみのる村から」の展示会を開いた。展示された戦争犠牲者なみな老人で、その笑顔や姿からは戦争の悲惨さは感じられない、それは大野さんと村民の友好交流の証しだが、老人の証言には胸を打たれた。また、里子のいる村の写真も展示され見学に訪れた里親に喜ばれ、市民に「失学児童」支援事業を知ってもらうことができた。

 「里子訪ねる」旅から偶然に日本人同士の交流が始まった。