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里子を訪ねて (10)

 *西頭小学校

 2000年9月、初めて臨県に行き里子の在学する小学校を訪ねた後、共青団が当地の観光地である磧口鎮を案内してくれた。鎮に着きすぐに鎮政府の表敬訪
問に向かった。旧い街並みが続く石畳の街道は、祭りの日なのか道の両側に店が軒を連ね、車が一台通るのがやっとの狭さ。これでは対向車とすれ違えない、と思っていると皮肉にもトラクターがガタガタとやってきた。仕方なくこちらが路地を左折して道を譲った。
 表敬訪問の後、同席していた教育委員の侯明有主任が近くの西頭小学校を案内してくれた。当時その学校に里子は居なかった。校舎は新築の二階建て、コンクリートの広い校庭、その端に石の卓球台が何台か置かれている。先生に案内され児童の授業を参観した後、道を挟んで建つ中学校にも案内された。小さな林を抜けると広い校庭、左側に校舎が並んでいる。誰も居ない校庭を眺めていると、何と校庭の中央に敷石が並び、それが一直線に北側の端まで延びている。何の為にか考えていると校舎の横からキーン、キーンと金属音が聞こえてきた。見に行くと、立てた丸太に一米ほどの古いレールがぶら下がっている。
それを鉄の棒で叩くと授業終了の合図だった。運転手の梁さんが試しに軽く叩くといい音が響いた。教室から出て私たちの側に集まってきた生徒に校庭の敷石について聞いた。その昔この場所には寺廟があった。この石は奥の正殿に向かう参道の跡だ、と教えてくれた。しかしなぜ寺が無いのか、詳しい事を知っている生徒は居なかった。
 私は帰ってから「磧口志」で調べて見ると、そこに有った寺は元代に創建された「西雲寺」で、旧称は道教の「西雲観」であったが、後に佛教、儒教も祀られ西雲寺と呼ばれるようになった。境内には正殿、三清殿と十和殿という陰司地獄(閻魔大王の裁判所)があり、そこで陰司による「油の釜茹で刑」など18種類の刑罰と鬼の刑吏が陳列されていた。それは貴重で珍しい文物であったが、後に迷信を排除する運動が起こり、その十和殿と共に正殿、三清殿も取り除かれた、有った。
 2006年4月、この西頭小学校に里子が在学していると分かり、再び私は二人の里親と訪れた。正門前で車を降り入って行くと、校庭を囲んだ塀の一部を黒塗りにした黒板で子供たちが思ひ思ひに勉強している。突然入ってきた私たちを見て固まった女の子が可愛いかった。そこで写真を一枚。


 里子は二人で女の子、共に母親は病気で動くないという。一人の子は父親が出稼ぎで居ない、今は家事と母親の看病をしている。もう一人は兄弟三人で父親は頭痛の病で働けないという。それでも明るい顔の里子にホッとする。二人を囲んで写真を撮ったあと、周りに集まっていた子供たちに土産のサッカーボールを渡すと黄色い声を上げ校庭で蹴り出した。
 里子と別れて校門を出ると、道端にぽつんと一つ、敷布の様な白い布を張ったテントの店。何を売っているのかと近づくと、小さな椅子に腰かけた老人と目が合った。私が「ニーハオ」というとニッコリ笑ってくれた。売台には文房具と駄菓子が並んでいる。写真を何枚か撮って再見!
 その翌年11月に臨県の里子を訪ねた。県内の何校か小学校を訪問し里子と会った後、宿泊は磧口鎮でと足を延ばした。それは昨年、西頭小学校を訪ねたあと校門
前の店にいたオヤジさんに写真を渡そうと思っていたからだ。しかし行って見るとテントは無かった。そこで街に戻り商店街の一角に屯していた人達に尋ねた。同行していた馬さんが写真を見せると、この老人は、この街道を戻り小学校に向かう路地に入り、右側の住宅街に住んでいる、と教えてれた。私たちは来た道を引き返し住宅街で探すと教えられた家は直ぐに分かった。 
 見知らぬ人たちの突然の訪問であったが、玄関先に出てきた老夫婦は馬さんの話を聞くと喜んで部屋に通してくれた。老人は暫く前に店は畳み、今は悠々自適の日々を過ごしているという。お茶をご馳走になった後,皆で写真を持った老夫婦を囲み記念写真を撮った。また来てくださいという二人と固い握手をかわし、再見!再見!