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その後の里子を訪ねて (1)

その後の里子を訪ねて
 富士見市日中友好協会は1997年から10年間、山西省の希望工程事業に協力し希望小学校の建設と「失学児童支援」事業に学費援助をしてきた。1998年、五台県豆村鎮の上陽村に希望小学校を建設。学費援助の資金は全省の僻地に送られた。1999年になると資金は山西省で最も貧しいと言われている臨県に送られ、そして2007年なで続いた。
<臨県の概況>
*県は、山西省の中央に位置する省都太原市から西に約250粁の所にある。
*地名は、漢の武帝代(126年)は臨水県、明の洪武帝代(1369年)に臨県となる。民国年代(1940年)に南県と北県に分離したが、1946年に併合となる。
*面積は、約3千平方粁で埼玉県の約80%の広さ。全県が黄土高原にあり西は黄河に面している。北部に森林地帯があり、東部に1700米と1900米の高山が二座ある。県の中央を流れる湫水河は北から南に90粁流れ黄河に流入している。
*産業は、主に石炭の産出。鉄も生産されている。
*農産物は、紅棗と呼ぶナツメが有名。2000年以上の歴史があり、全国の生産量の70%を占めている。他に主食ともなっている玉米(トウモロコシ)、山葯蛋(ジャガイモ)、黍、粟など。
*名所旧跡は、南部にある「李家山村」の窰洞(ヤオトン)居住群が有名。国内で最も種類が多く、建築学的、芸術的にも貴重な部落で、様々なヤオトンが高原の麓から頂まで並んでいる。
 道教の「黒龍廟」は磧口鎮の高原にあり、眼下に流れる雄大な黄河の眺めが素晴らしい。
 石仏群のある「義居寺」は三交鎮の郊外にある。万仏洞には神秘的な大小様々な仏様が並んでいる。
 唐代からの老柏樹が12本並ぶ「正覚寺」は曲峪鎮の小甲頭村にある。
 県城から見える黄土高原に立つ「文塔」(東楡山塔)は高さ40米で清代のもの、最近修理された。
 近代のものは、1930年代の国共内戦時代に八路軍が長征のあと陝西省に辿り着き、延安に根拠地を築いたあと、抗日戦争、解放戦争を経て中国解放直前の1948年3月に、毛澤東と解放軍幹部が陝西省から黄河を渡り山西省に渡岸した「高家塔村」に、それを記念した塔と黄河を見下ろす黄土高原に記念碑がある。(里子を訪ねて、4参照)
 その他に抗日戦争、解放戦争に関した革命烈士塔、陵、石碑が県内の各所にある。それ等は中国近代史の一面が分かる教材だ。

 今年はその臨県の学費援助が終り10年目になる。協会はこの「失学児童支援」援助事業の総括を考えていた。支援当初の里子は成人となり、最終年の里子も現在は中高校生か大学生の年代。現地に赴き里子と小学校の消息を調査するには良い時期であり、それに一昨年の10月、方山県の植樹祭に参加した折、当初の支援事業の責任者であった臨県共青団の王喜祥書記に再会した。その時に王さんは里子の一人が大学まで進学した。皆さんからの援助が無ければその児童の生涯は文盲だ、と知らせてくれた。
その話を聞いていた事もあり、協会はこの事業を纏める他に里子に資金援助をしてくれた「里親」に報告できる情報も得られると考えた。そこで2016年5月17日に派遣する協会の「市民友好訪問団」が上陽小学校を訪問の後、臨県に行き「その後の里子と小学校」の調査を計画した。
 上陽小学校訪問の翌日から私が一人で臨県に行き、23日までの4日間現地の里子と小学校を訪ねた。通訳には山西大学の馬さん、車は崔さんにお願いした。19日の午後、臨県の「新民大酒店」に到着。
そこで共青団の李書記と打ち合わせをいた後、県城から近い小学校の順に訪問することにした。

*李家圪台小学校
 県城から幹線道路を南に約5粁走り右折する。農道に入って行くと以前は畑だった所に新しい住宅が建ち並んでいる。村に入るとすぐに「后寨則学校」の看板を校門の上に掲げた学校があった。これは以前に無かった学校だ。とりあえず学校に入って行き旧い小学校の事を聞いた。先生はここは新しく出来た村で、近郊の学校はこの新しい学校に統合した。この奥にあった李家圪台小学校は廃校になった、と教えてくれた。里子の事を聞いたが先生は新しい方たちで、学費援助の事を知っている人はいなかった。
 その後、里子が在学していた李家圪台小学校がどうなっているか見に行った。見覚えのある村は寂れ人影は無く、学校が何処に有ったのか分からないほど荒れ果てていた。この辺りかと思い車を止め、近くにあった農家のおやじさんに学校の場所を聞くと、そこだと指差してくれた。その先に廃校となり崩れたやオトン教室があった。以前の面影はまったく無く、里子たちが声を上げボールを蹴って遊んだ校庭は今や雑草に覆われ、廃車になった青いトラックが捨てられていた。あれから十数年の月日が経っていたが、こうも無惨な姿になってしまうのか言葉が無かったが、しかし現実は目の前に有った。写真を撮っていると鍬を担いだ年取った農夫が通りかかった。何かこの村の事を知っているかと声を掛けるとこの村の者と言う、そこで農夫に里子の事を聞くと、何とかつて二度も訪れたことがあった里子の家族を知っていた。その里子の名は孫毛毛と妹の美玲。里親は当協会の本多副会長。(里子を訪ねて、11参照)農夫は、兄の毛毛は村を出て現在は太原で働いている。美玲は結婚して村を出たと、また以前に私たちが一緒に写真を撮った父親はどうしているか聞くと、彼は7年も前に病気で亡くなり、住んでいたヤオトンは誰も住んでいない、今は廃屋だと教えてくれた。しかし他の里子については知らなかった。偶然とはいえ、調査したい一部のことが分かり助かった。
 「十年ひと昔」と言うが、世の中が進歩したのかそれとも村が発展したのか、李書記の案内が無ければ里子の住んでいた村も学校も何処に有ったのか、分からない程の変わり様であった。