今は李家山小学校の近くに住んでいる大野さんは2000年頃、臨県に住み始め今迄に南部地方の村を転々と住み替えていた。私が初めて大野さんを知ったのは2006年、当時協会の会長であった須藤さんと樊家山小学校に里子を訪ねた時であった。その時も彼女は小学校近くの窰洞に一人で住んでいた。その後、隣り村の賀家山村に住んだことが有ると聞いた。そこで半年前に磧口鎮で会った時に、2001年に「失学児童支援」事業で特別に援助した賀家山村の少女賀宇債が小学校を修了したかどうか確かめてもらった。今回はその話を聞くのも楽しみにしていた。
その後、大野さんは賀家山村を尋ねてくれたが、賀蘭曜さん一家は既に転居していて会えなかったという。そこで近所の人に賀さんの消息を尋ねると、娘の宇債が小学校を卒業したあと暫くして両親が離婚した。母親は娘を連れて出て行ってしまい、残された賀さんは隣り村の親戚の所に転居したと話してくれた。私はその話を聞いて、賀さんのあの嬉しそうな顔を思いだし何とも言えぬ気持になった。しかし父親の念願だった娘が小学校で勉強できたことが分かりほっとした。そして帰った後、この話を里親の宗さんに伝えると、安心したと喜んでくれた。
李家山村から高原を下り磧口鎮の街に戻ると、私は旧い街並みを散策しながらある店を捜した。それは初めて来た時に磧口鎮政府を表敬訪問した後、旧街道を散策し
た時に写真を撮った焼餅の店。店の前でドラム缶の炉で餅を焼くオヤジさんと、中で月餅を木型で作っているオバさんを撮った。
その写真は私が帰国後に、磧口鎮政府の劉燿楽鎮長から手紙が来て、そこに臨県の王洪廷氏が編纂している「磧口志」で、街の紹介で使いたいと依頼されそれを郵送していた。
今回はその引き伸ばした写真をオヤジさんに渡し、「磧口志」の69頁に掲載されていると知らせたかった。しかし、その店がどの辺りだったのか思い出せなかった。そこで遊んでいた子供たちに尋ねると、写真を見た子供はすぐに「知っている」と、案内してくれた。狭い路地に入ると子供はすぐにここだと教えてくれた。着いた家はオヤジさんの自宅であった。
家は作業場にもなっていて、小麦粉の袋が積まれた一角で焼餅を作っていた。オヤジさんは見知らぬ人の突然の訪問に一寸驚いた様子だったが、写真を渡すとすぐに笑顔となった。「磧口志」の話にオバさんも大喜び。出来たての焼餅をご馳走になり、同行者の岩本夫人も「好吃!」と満足顔。
その後は磧口の来ると必ず寄る所に向かった。そこは、清時代の豪商であった西湾村の陳氏邸(No20、湫水河にて参照)。今も岩山を背にした石の窰洞屋敷に数世帯が住んでいる。その北端が養蜂を営んでいる家、店に入って行くとその窰洞が蜂蜜の倉庫でもあり、そこに大きな瓶が並んでいる。私たちが眺めているとオバさんが、この瓶は棗、こちらは槐(ニセアカシヤ)と説明しながら、小皿に蜜を垂らし味見をさせてくれた。棗は味と香りで分かるが、槐はクセが無くさっぱりしている。一斤の値段が棗8元、槐は10元と安い。
蜂蜜の窰洞に入るのは初めての岩本夫人。珍しいのか辺りを見回していたが、ここでも目敏く見つけたのが部屋の隅に置いてあったザル。それは李家山村で譲って貰えなかった黒いザルと同じ形。こちらは新しいのかまだ白い色。直ぐに手に取った岩本さん、ハチミツより先にザルが欲しいとオバさんに交渉している。するとオバさん直ぐに「好」。念願の物をゲットし、喜んだ岩本さんの笑顔が忘れられない。
私は帰国後、大野さんのHP「紅棗のみのる村から」を見るのを楽しみにしている。彼女がHPを始めた頃は、この臨県で日中戦争時に犠牲となった関係者のポートレートと体験談が多かったが、最近ではその地方の風俗・習慣・風景、それに村人の生活などの掲載が多くなってきた。
その中に2009年9月「なぜか日中友好協会」の記事があった。そこには、ある日大野さんの隣に住むお婆さんが訪ねてきた。手には一枚の写真を持ってい
て「私の孫に小学校に通う学費を援助してほしい」と、彼女に懇願したとあった。私はその画面に写っている「写真」を見て目が点となった。自分が撮った写真がどのようにして人から人へと、巡り巡ってお婆さんの手に渡ったのか、不思議な事実に驚いた。
それは2001年、臨県の賀家山村から娘の学費援助を頼みに来た賀蘭曜さんを共青団の王喜祥秘書長と私たちが囲んで撮った写真だったのだ。(前号、上の写真参照)それを私は賀さんに送っていた。その写真が8年間、どの様にしてお婆さんの手に渡ったのか、その経過はHPの記事には書いてなかった。 この「失学児童支援」事業は、大野さんには関係の無いものだが、その地方の村人は日本人の大野さんは何か知っていると見たのか。これは私たちが進めている民間交流の「日中友好」の世界が絡み合った出来事なのだ。そしてこの様な不思議な出来事が私に「生き甲斐」を与えている。 |
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