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その後の里子を訪ねて (2)

今回の目的である里子が在学した60余の学校と村について、共青団は調べてくれていた。しかし村の多くは僻地、村が有っても学校は廃校。村は廃村、学校も廃校。他の街か村の学校に統合されて廃校など様々で、詳しい事は現地に行って見なければ判らないと、李書記の話。無理のないことであった。
*永豊学校
 この永豊学校は、須藤会長と私は2005年に訪れていた。そこも廃校になっていると聞いたが見に行った。すると10年以上も前に訪問した時と全く変わらない校舎と周辺。その姿には驚いた。不思議な気持ちで近づき、校庭を覗いたがやはり誰もいない。この学校にいた里子は一人で、近くの黄土高原の中腹にあるヤオトンに住む「貧乏人の子沢山」家族の末っ子。(里子を訪ねて、5参照)その時、私たちに同行した山西省政府の幹部と訪ねた。大家族に会って「一人っ子政策」は完全に失敗だった、と役人が嘆いた家族だ。里子はどうしているか、家を訪ねようと辺りを見渡したが、街道沿いにある村は以前とすっかり変わっていた。廃屋ばかりが目立ち人影が無い。里子の家は高原の細い道を少し登った所だが、そこに行く登り口が分からない。探して見ようと通りすがりの村人に聞いても知る人は居なかった。多分、訪ねても家族は誰も住んでは居なく、今は廃屋となっている気がした。
*寨則上学校
 この学校も李書記から廃校になっていると聞いたが、私はそのことは2007年に知っていた。その年は「失学児童支援」事業の最後の年。臨県を訪れた際に県城に近いこともあり、里子は全員卒業していたが先生にその後の状況などを聞きたく学校に寄った。学校に着くと、校門は閉じ鎖錠され、教室の窓は板が打ち付けられている。門の隙間から校庭を覗くも閑散としている。暫く使われていない感じであった。そこで以前に訪れたことのある里子の秦冬冬の家に行った。(里子を訪ねて、1参照)そこは学校のすぐ裏にあるヤオトンの家。その入り口に掛かる分厚い暖簾越しに声を掛けると、寝惚け顔の娘さんが出てきた。昼寝をしていたという娘さんは里子のお姉さん、弟の冬冬は小学校を卒業したあと街に出て働いている。母も元気で今は畑に出ていると。そこで学校の事を聞くと、数年前に起きた奇妙な事件を話してくれた。



中国の学校には先生が定住しているところが多い。当時この学校は校長先生が住んでいた。ある日の夜、訳は分からないが夫婦喧嘩となった。激しい口論となり校長は妻を殴り殺してしまった。校長は中国の刑罰が厳しいことを知っていた。そこで逮捕され死刑になるより自ら死を選んだ。学校から遠くない畑で服毒自殺をしてしまった、と教えてくれた。私が学校は校長先生が居なくなり廃校になったと思ったが、姉は続けて、その後村人はこの「事件」は縁起が悪いと「学校」を風水師に占ってもらった。すると占いの結果、この学校は子供の教育に「凶」と出た。そこで親たちは、こんな学校では子供に勉強をさせられないと、児童全員を他の学校に転校させてしまった,と言う。日本では考えられない話であった。もう10数年も前の事件だが、児童が転校した学校は先程訪問してきた「后際寨則学校」だと思う。
 昔から中国人はてんでんばらばらで、力強く握っても固まらない砂のようで、手を離せば直ぐにバラバラになってしまうという例え話を聞いていたが、現代の中国に於てもこの様な「占い」とか「迷信」の類で、人民が直ぐに纏まり行動するのが不思議であり面白い。良く分からないが、これが歴代の革命を起こしてきた原動力なのか、それともこれが中華思想なのか。このことに関係がないかも知れないが、村の家は皆が「秦始皇帝」の「秦」姓だ。前に全部が親戚では無いと聞いたが、先祖が始皇帝と信じている家も有るようだ。そんなルーツを想像すると、この廃校となった顛末が何となく分かる気がした。これだから何時までも「中国」に興味が尽きない。