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里子を訪ねて (12)

*街道小学校

 この小学校のある臨県磧口鎮の名の由来、それは県の中央を流れる湫水河が黄河に流れ込む合流地にあり、そこに広がる砂利(磧)の河原からきている。鎮は黄河に沿って南北に位置し、その街の南端に小学校がある。

 2001年9月、里子が在学していると聞いて訪ねた。前年初めて来たときは丁度お祭りの日で、この旧街道に溢れかえっていた喧騒が嘘のよう。今年はなぜか商店の扉は閉じたまま、人影は疎らで閑散としていた。旧街道は石畳、車から降りて歩いてみた。両側の建物は黄河の水運で栄えた面影を残している。そんな歴史を感じる街並みを散策しながら学校に向かった。


 小学校は灰色のレンガ塀に囲まれていた。門の横の壁に「街道小学」と「職業技術学校」の二つの看板が貼り付けられていた。左にある門から入って行くと、狭い中庭が教室に囲まれ四合院の様な造り、そこが校庭で隅に置かれた石の卓球台で児童が遊んでいた。



里子は一人で男の子、可愛らしい二年生で、父親が居なく祖父母が育てている子だった。鎮や郷の小学校は比較的里子は少なく、街から遠く離れた村ほど里子は多くなる。やはりそれは経済的なワケなのだろう。

小学校を訪れた後、県内で最も大きい廟が街の外れに有ると聞いて出かけた。旧街道を北に抜けると左側は黄河の流れ、その先も河岸に沿って街並みが続き、その背後に黄土高原が広がり、そこに窰洞が段々と上に繋がっている。その窰洞の脇をジグザグに登る。窰洞の庭は下の家の屋根になっている。その隅に小さな煙突が顔を出し煙を吐いている。そんな窰洞住宅を抜けると、両側に鼓楼と鐘楼を抱えた廟の大きな山門に出た。そこを潜り中から鼓楼に登ると磧口の街が一望。そしてこの山門から眺める黄河の景色が素晴らしい。私は今迄に数多くの黄河を見てきたが、この眺めに勝るものはなかった。北から流れてきた黄河が陝西と山西の黄土高原が重なる隙間から顔を出し、緩やかに右に曲がり磧口にぶつかる。その流れは鎮の岩壁を抉りながら左に流れを変え、そこで合流した湫水河を抱え一気に河幅を広げ流れは階段状になる。そこは「麒麟灘」と呼ばれ、河は得体の知れない不気味な響きをたて一瀉千里と南に流れる。その光景を時を忘れて見ていた。

廟のお坊さんは、ここは「黒龍廟」という道教の寺でこの土地の守り神。この建物は解放前から有る下廟で、以前はこの上により規模が大きい上廟が有った。下廟は中庭を主殿と戯台、観台で囲んだ演舞場で四角形の廟。この場所は音響効果が良く、ここで奏でられた音は十里の彼方まで響き、「山西唱戯陝西听」と言われていると、説明してくれた。

例によって、私はこの黒龍廟の上廟について調べてみた。創建年代は不詳だが明代には建築が始められ、清の乾隆年間に上廟と下廟になった。上廟は抗日戦争の時期、日本軍に反撃する武器の手榴弾の柄に、廟の建築木材を使った為に壊した。しかし下廟は、多くの村民がこの廟を守る為に自らの家屋を壊し木材を提供したとあった。

山西省には寺廟が多い。古代から様々な理由でどのくらいの寺廟が破壊され、再建されてきたか分からないが、この廟の事を調べていると以前聞いた「ある話」を思い出した。

それは1977年5月、「友好の船」で訪中した時、同行した上尾市の福島さんからの話だ。福島さんは日中戦争が始まると間もなく軍に徴用され山西省に派遣された。軍隊が侵攻した地での露営は雨露のしのげる寺廟が格好の場所であったという。そこを拠点とした兵士たちは食糧は住民から強奪したが、それを煮炊きする燃料が無かった。黄土高原が多い山西に燃料となる樹木は少ない。木造の寺廟はそれ自体が燃料となった。福島さんはどのくらい寺を破壊し、薪にしたか分からないと。そして今回はその行為の償いとして幾らかの金を用意してきたと言った。しかし中国側はそれを受け取らなかった。
2年後の夏、福島さんはどうしても金を渡さなければ気が済まないと、私たちと再び訪中した。暑かった北京の観光を終えた後に紅十字社を訪ねた。中国側は事情を理解してくれ、快く受け取ってくれることになった。持参した金は終日福島さんの腹巻の中にしまわれていた。取り出された札束は汗に濡れ、ぶ厚い一つの塊となっていた。


因みに、日本軍が破壊した寺廟がどのくらい有ったのか調べてみた。

*臨県内、142寺廟(1938年~7年間)。破壊家屋83198戸。犠牲者2988名。

*磧口鎮内、3寺廟(1939年~4年間)。破壊家屋311戸・窰洞729洞。犠牲者84名。

これは小さな県と鎮に於ける情況だ。山西省全体の資料が無く不明だが、推して知るべしであろう。