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里子を訪ねて (16)

 里子を訪ねて(16)

*開陽小学校

 富士見市日中友好協会が1997年から始めた「失学児童支援」事業は、山西省対外友好協会を通じてその資金は全省の僻地に送られていた。そして1999年に最も貧しいといわれている臨県に援助され、その後も協会からの支援は続いていった。2005年頃から中国政府の「失学児童一掃」の政策が実施されると臨県に於いても失学児童は少なくなっていった。

 2007年5月、私は当協会からの資金援助が最後となった開陽小学校を訪ねた。その時、県協会の菊地さん、山西大学の馬さん、旅行社の侯さんが同行してくれた。今回で里子と小学校が最後になると思い、市民の方々からの協会に寄せられた学用品など全て持参した。その量は段ボールで5~6箱となった。(里子を訪ねて・6参照)









 太原市郊外での植樹祭に参加した後、臨県に入り幾つかの小学校を訪問し、そして最後に曲峪郷の開陽小学校に向かった。その村に行くには黄河沿いの道は景色がいい。舗装されていない砂利道はスピードが出せない。それが代えって旅の気分を楽しめた。左に流れる黄河の向こうは陝西省の黄土高原が連なる。右は黄河が黄土高原を削った岩の絶壁。その岩肌によく見ないと見過ごしてしまう小さな磨崖仏が彫ってあった。車を止めて一休み。写真を撮り眺めていると、私にはそれが何時の時代に彫られたか分からないが、黄河に舟を引く苦力達や旅人の安寧を願って造った仏様のように思えた。

 そんな道を走って行くと曲峪郷に着いた。訪ねる開陽村はそこから4粁ほど北にある。郷の街を抜けて行くと遠くから甲高いラッパの音が聞こえてきた。村に入ると道端に黄装束の一団が屯している。その横で若者が鐘や太鼓とラッパを奏でている。周りで見物している村人に聞くと結婚式の準備をしているのだという。

 その村外れに小学校があった。校庭は広いが林の様に何本もの樹が植えてある。それとも林の中に校舎を建てたのか。どうも中国の小学校は日本のような運動会は行わないのか。他の学校でも校庭に樹が有ったのを見た。それはまるで林間学校だ。そこに珍しい造りのヤオトン教室が並んでいる。その造り方は平らな土地に黄土をアーチ状に盛り、その周りを石や煉瓦で囲む。その後に中の黄土を取り除いて造った「独立ヤオトン」で、木材の少ない地方で考えられた家屋だ











 この小学校の里子は12人と聞いていたが、先生が呼んできたのは13人。何事も大雑把な中国だ、私たちからの援助資金が少し余って多くなったのか。耿さんに通訳してもらいながら一人一人から話を聞いたあと、一人づつ写真を撮り例によって皆で記念写真をと並んでいると、遠くからラッパの音。周りにいた児童たちはそれを聞いて一斉に走った。急いで写真を撮ると里子も走った。私たちも後の続いた。校庭の脇の道を若者が鐘や太鼓とラッパを鳴らしながら先導し、その後ろに黄装束の一団が二台の神輿を担いで続いている。先生に聞くと前の神輿には花婿が乗っている。これから後ろに乗る花嫁を迎えに行く行列と教えてくれた。どんな結婚式なのか、可愛い花嫁なのか、行列に着いて行き見物したかったが残念ながら時間が無かった。

 この「里子を訪ねて」のシリーズは今回で終わりですが、この5月に私が一人で臨県に行き4日間にわたり、十年後の里子の消息、そして小学校の調査に山村を回った。その時の状況などを引き続き「その後の里子を訪ねて」として掲載してゆきます。

 今回、その後の里子を訪ねた折、太原で今まで何回となく通訳でお世話になった旅行社の侯さんが数年前に亡くなったと知らされた。彼はまだ五十代であつた。退職した後も生涯中日友好運動に携わって行きたいと、私たちに話をしていた酒豪の人でした。残念、また一人同じ志の人が逝ってしまった。合掌