1999年より2006年まで、富士見市日中友好協会は山西省の臨県に「失学児童救援」事業の資金を援助した。私は2000年から8年間に8回臨県に行き、失学
児童の居住する村、家庭、小学校を訪問した。そこで、この事業に関係した出来事など纏めてみた。
*寨則上小学校
2000年9月、臨県で「失学児童救助」事業の資金運用を聞きに訪問した折、説明してくれた共青団の案内で初めて訪れたのがこの小学校。全校生徒と先生、近所のオジさんオバさんの熱烈歓迎を受け大感激。そのあと集まった人たちと十数名の里子を囲んで記念写真。
私は里子の名簿を見た時、全員が「秦」という姓が気になっていた。そこで先生になぜなのか聞いてみた。するとこの村は全員が「秦」姓で親戚同士も居るが、ほとんどは関係のない他人というではないか、私は偶然の一致でない、何か歴史的な意味か原因が有るのではないか、と思えた。そんな不思議な村であった。
同行した里親の宗さん、里子の秦冬雪くんと感激の対面。家が近くに有るというので案内してくれた。学校のすぐ裏にあった住居は典型的な窰洞(ヤオトン)。前の小さな庭は私たちに付いてきた近所の人ですぐに満杯。窰洞の中で母親と姉が待っていてくれた。私たちは家に入り「父親は」と聞くと数年前に亡くなり今は家族三人という。働き手は母親だけの百姓一家。収入は少なく食べて行くのが精一杯の生活。下の子を就学させられないでいたのだ。里親と固い握手の母親の笑顔が忘れられない。窰洞の前で里子を囲んで記念写真を一枚。また必ず来てくださいという親子に、再見!
*王家山小学校
この小学校は、鎮から遠く離れた黄土高原の村にある。高原は低い山のようで頂上まで段々畑になっている。そんな高原が果てしなく続いている。この年は珍しく豊作との話。何時もは黄色い地肌の多い高原は緑に覆われていた。その高原にトウモロコシの繁った畑が続いている。私たちの車は細い山道をジグザグに登って行く。地元の人はこの様な道を「羊腸路」と呼んでいる。羊の腹を裂くと腸が折り重なって見えるのだという。小学校はそんな高原の頂上にあった。猫の額ほどの校庭に平屋の校舎。そこに里子が父親と待っていてくれた。この小学校の里子は一人。私たちの訪問に緊張してか里子は声が出ない。記念写真のあと私は先生に児童の授業を見たいとお願いした。教室を廻ると中に大きな水瓶が置いてある。井戸も水道も無い学校。高原の麓から各教室に児童が交代で水を運んで来ているという。先生は小さな子供には大変な労働だといった。教室から出ると、丁度一人の児童が天秤棒を担いで水を運んできた。そこで担いだままの写真を撮らせてもらった。里子と別れる時、父親が庭から採って来たという棗の入った大きな布袋を渡してくれた。
*鐘底小学校
この小学校は、三交鎮の街から東に何籵か離れた小高い丘にある。校門は頑丈なコンクリート作りで、校舎は部厚い塀に囲まれている。里子は二人、二年生と三年生の元気な子であった。記念写真のあと、先生からこの小学校の歴史についての話があった。「日中戦争の最中の1942年6月、日本軍はこの鎮に侵攻し三光作戦を行った。そして鐘底村を占領しこの建物に陣地を構えた」と、そして「この歴史を忘れない為に、解放後この場所を利用し少年たちを教育する基地にした」と続けた。終わりに、貧しく失学児童の多いこの村に教学の資金援助をしてくれた日中友好協会に感謝している、と言われた。
帰国後、すぐに霍文強校長から礼状が届いた。手紙には私たちが訪問した時、小学校で聞いた話が更に詳しく書かれていた。私は手元にある「臨県志」で、日本軍隊が侵攻した歴史を調べた。そこには、「臨県の侵犯は盧溝橋事件から半年後の1938年2月、磧口鎮に日本軍千人余の侵攻から始まる。日本の敗戦まで七年間に於ける鎮、郷、村での侵犯と三光作戦の惨状。三交鎮で飛行機の爆撃による八路軍兵士一人の爆死。この鐘底村は二年以上も占領されていた」等、詳しい記述があった。
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