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「失学児童救助」
1997年に始めた「希望小学校」建設支援活動と並行して取り組んだ「失学児童救助」の募金活動も、会員と市民の協力で多額の資金が集まった。募金は一口6000円。それは児童一人が小学校を卒業するまでの金額。そして援助者を「里親」、受けた児童を「里子」と呼んだ。
当初、募金で集まった富士見市日中友好協会の資金は、埼玉県日中友好協会がまとめ、山西省に送り、そこから「希望工程」事務所を通して全省の県に配分していた。
1999年9月、富士見市日中友好協会の役員と里親が、山西省北部の内モンゴルに近い偏関県と河曲県にいる里子を訪ねた。訪問した小学校は大歓迎してくれ、里親と里子は感激の面会となった。しかし校長も村の役人も、里子が入学した経緯や学費について何も知らなかった。同様に県と市の日中友好協会も資金の流れを掌握していなかった。
私は帰国した里親から、日中友好協会が「知らなかった」では済まされない。募金した資金の運用について、里親に説明する資料、情報を持つ責任が有ると言われた。
当然の話に、次に「失学児童救助」資金を持参する時、私は山西省対外友好協会から、この件の詳細について聞くことにした。
2000年9月、私は山西省対外友好協会を訪ねた。対応してくれた劉晋凌さんは、希望工程事業の責任者で、希望小学校建設時からの顔馴染み。劉さんも、援助資金は全省100余の県に配分している。その後、各県の政府がどの様に運用しているかは、詳しくは掌握していなかった。そして劉さんは、昨年より富士見市日中友好協会からの資金は全て臨県に配分している。臨県は省の西部にあり、貧困県の一つと教えてくれた。私は直ぐに臨県に行き、実情を聞きたいというと、劉さんは、臨県政府の趙有珍書記は古い友人と、直ぐに電話で連絡してくれた。
翌朝、私たちは梁さんの車で臨県に向かった。太原から南に走り交城県へ、そこから西に向かい、風光明媚な森林公園の「龐泉溝」を見に行った。途中の林で、梁さんがツル状の草に付いた鞘を見つけた。鞘の中から小さな豆を取り出し、これが大豆の「原種」だと教えてくれた。その後、森林公園の中に入ると、大きな金網の小屋に、キジより綺麗で一回り大きい鳥がいた。係りのオヤジさんは、これは国鳥の「褐馬鶏」で、一人で管理し飼育していると言った。
交城県から方山県の北部を通過し、そこから黄土高原を登り臨県に向かった。峠にさしかかると道路に丸太が横たわり通行止め。県境の関所なのか、しかし番小屋は無く誰も居ない。梁さんが警笛を鳴らすと、近くの窰洞(ヤオトン)から子供が飛び出して来て丸太を上げてくれた。
臨県に着いたのは夕方。趙書記と関係者は臨県賓館で待っていてくれ、食事を用意してくれた。私たちに通訳は居なかったが、昨日劉さんから訪問の用件を連絡していたので、話は直ぐに通じ和やかな宴会となった。
趙書記は、「山西省からの援助資金は県政府に入ってくる。そして失学児童救助事業は、共青団に担当させている」という。そこで詳しくは共青団から聞くことにした。
翌日の会議には、共青団から王喜祥書記と数名の委員が参加した。「臨県政府に入った援助資金は、共青団が管理している。運用は、一人分の6000円を里子が卒業するまで均等に分け、一年分を半年毎に支給している。児童は、全県の貧しい家庭を調査し、失学している子供を掌握し、毎年その内から決めている」など、事業の内容を聞くことができた。また他県の方法に付いて聞いたが、詳しくは分からないという。どの県も援助資金は下部の鎮、郷、村の政府、そして小学校にも相談無く、県政府が児童を決め入学させている様であった。私はこれも「俺の所は俺の所、君の所は君の所」の中国だ、と妙に納得。この方法に問題は無いと思った。
話が終わると、共青団が私たちを里子が在学する小学校に案内してくれた。 (No20「湫水河」。No37「葛餅」参照) つづく