*高家塔小学校
私が山西省の臨県に、かつて毛澤東が滞在したことを知ったのは1992年、五台山に行った時であった。それまで五台山は何回か訪れていたので、その時は一人で台懐鎮の寺廟を散策していた。とある寺の入り口に「毛主席路居旧址」の看板。門の中を覗くと誰もいない。雑草の茂っている庭を通り寺の中に入ると、書斎には実際に使ったのか?机と椅子、隣の部屋にはベットが一台。短期間の滞在だったのか家具らしき物は見当たらない。壁には大きな地図。それは1948年3月23日、黄河西岸の陝西省呉堡県から渡岸し磧口鎮から臨県内を北上、山西省を横断し五台山に到着までの行路図であった。
その頃、私は山西省の詳細な地図を持っていなかったので、磧口鎮が何処に有るのか分からなかった。1995年に中国で発刊された「山西省地図集」を取り寄せた。調べると「臨県図」の説明欄に名勝古跡として高家塔村に「毛澤東東渡黄河登岸処紀念
碑」が有ると記載があった。しかし、その後私は何回となく山西省を訪れたが臨県に行く機会は無かった。
2000年9月、私は「失学児童救助」事業で初めて臨県を訪ねた。その年、援助した里子が在学する小学校は県城から比較的近い山村にあり、遠く離れた辺鄙な高家塔のような村に里子は居なかった。そこで私は共青団に今後は援助の範囲を広げ、僻地の子供たちの就学を要望した。
そのこともあって翌年からの援助は全県に広がって行ったが、高家塔村には里子は居なかった。そこで他村の幾つか里子の家庭と学校を訪問した後、時間を見て高家塔村を訪ねた。
黄河の旧い港街であった磧口鎮から河岸を北に向かった。村までは約10粁、時間はどのくらいかかるか分からなかった。この辺りの黄河は北の内モンゴルから山西省と陝西省との間、いわゆる晋陝峡谷を南の河南省まで「一瀉千里」と流れる中間で、地図で見ると南北に直線で急流の様に思っていたが、穏やかに蛇行しながら流れてる。河原が広がっている所は道も広く、両側は棗を植えた果樹畑となっていた。この棗は有名な紅棗で「灘棗」とも呼ばれ高級品だ。茶色になる前の青い実も甘くて旨い。途中、無断でご馳走になりながら走ると、道は黄河に迫った黄土高原を削った細い砂利道となってきた。対向車とすれ違える場所もない。崖下は雄大な黄河の流れ、景色は頗る好いが転落したら「一巻の終わり」だ。そんな道を走っていると、前方に三輪トラックが道を塞いでいる。2~3人の男が崖から切り出した石材を積んでいる。道は狭く前に進めない。時間が無いが仕方がない。私たちは河原に降りて一休み。トラックは思っていたより早く動いてくれた。その後に付いて行くと前方に林が見えてきた。高家塔村だ。小学校は村の入り口に有った。校舎は黄土高原の崖に掘った窰洞。授業中であったが、職員室に校長先生がいた。そこで私たちは、山西省に「失学児童救助」事業で来ている。この小学校には里子は居ないが、「毛主席東渡」の碑が有ると聞いて来た、と話をすると校長先生は歓迎、歓迎と笑顔で握手してくれた。そして何時もは先生方が昼飯の垃麺を食べているのだろう、大きな丼に白湯を注いでくれた。この地方では「茶」は貴重なもの。私は何時も土産にと用意している「茉莉花茶」を差し上げた。
校長先生は「毛主席~」の碑は、この校舎の崖の上に有るという。授業を終えた先生が私たちを案内してくれた。校舎の裏から高原の狭い道を登ること10分ぐらいか、大きな白い碑が見えてきた。先生はこの碑は、高さは1米余,幅は約3米の漢白玉石で、登岸30周年の1978年3月23日に建立と説明してくれた。碑には「毛主席東渡黄河登岸処」と彫られている。碑を囲んで皆と記念写真。
帰りは村に行く道を下った。村に入ると道端の巻上げ井戸から一人の老人が水を汲んでいる。その風景を写真に撮って小学校に向かって歩くと、前方から小さな鍬を持った老人が歩いきた。私は、この村の農民ならば「毛主席東渡」の事を知っていると思い呼び止めた。老人は、見知らぬ人の突然の声に何事かと怪訝な顔だったが、その昔この村に毛澤東が来た時の事を聞くと頷いた。その頃は子供であったが、ここで解放軍兵士と大勢の村人に混じって舟で渡ってくる幹部を迎えた。村中が大騒ぎした記憶は有るが、しかし誰が毛澤東で、誰が周恩来だったのか、まったく覚えていないと
いう。
真剣な顔で、微かな記憶を辿りながら話をする老人。その姿は今も脳裡に焼き付い
ている。 |
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