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里子を訪ねて (7)

 2004年9月、再び里子を訪ねる旅に出た。同行者は協会役員で里親の本多さん、そして吉見町から里親になってくれた三上さん親子と四人の旅。三上さんの娘さんは数年前から山西大学に語学留学中で通訳もでき、失学児童にも関心を持っていた。
 今回は、臨県で最も大きい街である三交鎮の里子を訪ねた。この三交鎮は県城から幹線道路を南に約十粁の所に在る。街の外れで、西にある省都太原~離石からの幹線道路がぶつかり三叉路になっている。更に南に行くと黄河辺の磧口鎮が在る。この三交鎮には里子が多く10校に在学していた。 私が初めて臨県に来たとき、この街は県内で最も対日感情が悪いと聞いていた。そこで「臨県志」の近代史を調べると、そこには1940年3月に日本軍の空襲で犠牲者が出た。その後に年間に渡り日本軍に占領され、周辺の郷鎮に進攻する拠点となった。そして解放後に抗日戦争で犠牲となった戦士と人民を祀って建てた記念碑もある地図が載っていた。私たちが三交鎮に着いて街中を歩いていても、悪い雰囲気はまったく感じられなかった。私は小学校に行く前に鎮政府を表敬訪問をした。出迎えてくれた政府役人と名刺交換したあと、直ぐに記念碑に参りたいと告げた。そると、何と役人はその様な物は無いという。日中友好協会の事業を知った上での対応と思い、私はそれ以上何も言わなかった。
挨拶が終わると、直ぐに食事をと招かれた。庁舎の中庭に木立があり、その中に石の大きなテーブル。建物の脇に設置された竃の上に大鍋。若者二人がウドン玉を持ってきた。鍋の上に洗濯板に穴が空いた様な道具を渡し、一人がウドン玉を押しつけ延ばした。細くなったウドンが煮え湯の中に落ちてゆく。山西名物の擦尖麺だ。茹で揚げた麺の上にトマトと玉子を煮込んだ山西独特のタレを掛ける。心暖まるご馳走の数々。私は食べながら隣の若い役人に「記念碑」の事を聞いた。すると「有」という言葉が返ってきた。「歴史を忘れない!」これが日中友好の原点だ。







 *双塔小学校
 山西麺で満腹になった後、幹線道路を南に走り双塔村に向かった。里子の在学する双塔小学校は村の奥まった所にあり、職員室に三人の里子が待っていた。二人の男の子は背が高い。先生に聞くと五年生という。二人は共に家庭の事情で中退するところ、貴協会からの支援で失学児童の援助が受けられ在学していると話してくれた。共青団によると、小学校を中退する児童も多くいて、山西省も支援を広げているとの話。
 里子と集まってくれた児童たちと記念写真。プレゼントしたボールで皆と遊んだあと、私はこの村でどうしても見聞したい「事」があり村の中を散策した。
 「1948年3月23日、陝西省から黄河を渡り山西省に入った解放軍幹部の毛澤東、周恩来一行は磧口鎮に宿泊した後、翌日はこの双塔村に滞在した。そこで周恩来は解放軍兵士と村民を前に“これからも蒋介石を打ち破り、全国の解放に向け河北省平山県に行く”と告げた。そして3月26日、幹部は1輌の吉普車(Jeep)に乗り、臨県を北上し五台山に向かった」と、私は中文の小冊子で読んだ事があったからだ。
 私は解放軍兵士がこの村のどの辺りに滞在し、毛澤東が何処に宿泊したのか、ここに住む老人ならば知っているのではないかと捜し廻った。その日は暑く村には人影が少ない。とある家の日陰になった壁に凭れて話し込んでいる老婆が二人。近づき「ニーハオ」、発音が悪いのか通じないようだが、二人は顔を向けてくれた。私は、解放前に毛澤東がこの村に来た事を聞くと、「不知道」と一人が首を振る。すると隣の老婆がその話は聞いたことが有るという。しかし昔に聞いた話、何処に来たのか知らないという。残念だが仕方がない。


 その後も何人かの老人に聞いたが、知る人は居なかった。しかし、途中で会った若者が双塔村の入り口に小さな塔がある、その辺りで聞くと分かるかも知れないと教えてくれた。
 私は期待を持ち村の入り口に向かった。幹線道路に出て北に走ると道路の脇に建つ小さな塔が見えてきた。塔の高さは十米ぐらいか、その近くに車を止めた。道路脇にあった車の修理屋の若者に尋ねた。やはりその話は聞いたことが無いという。そして、この塔は清代にこの村から科挙の試験に合格した人を祝って建立した、と教えてくれた。塔の上段に「魁星樓」と刻まれていた。
 この話は六十年の昔の事だが、この辺鄙で小さな村に解放軍が駐屯し、毛澤東はじめ幹部が二日間も滞在した歴史的な出来事だ。双塔村には、この「事」を知る老人は必ず居ると確信していたが、捜す時間が無かった。
 魁星樓の写真を撮って離れるしかなかった。