山西省四方山話 45
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里子を訪ねて (5)

 臨県の磧口鎮に毛澤東が滞在したことを調べていると、山西省には1936年の国 共内戦時に延安から黄河を渡り、紅軍の指揮に来ていた事が分かった。
1934年に開始した紅軍の長征は、各地から二年をかけ陝西省の延安に集結した。その頃になると山西省で閻錫山の率いる国民党との戦闘が激化してきていた。
そこで紅軍と幹部は次々と山西省に入って行った。1936年2月2日、毛澤東も延安を離れ黄河西岸の袁家溝に来た。しかし前日までの大雪で渡河を断念。その時、毛澤東は黄河の先に広がる銀世界を眺め、一つの詩を詠んだ。それが有名な「沁園春・雪」。その漢詩は、中華歴代の皇帝が果たせなかった、天下統一の決意を詠っている。
その後、黄河上流に移動した毛澤東は2月23日、河口村から山西省に渡岸し石楼県の張家塔村に入った。因みに、この地方には富士見市日中友好協会が1997年、山西省対外友好協会から希望小学校建設の候補地と提案のあった韓家山村がある。 しかし、あまりにも不便な山村で建設を断念した僻地だ。
(No~41「希望小学校」参照)


その年の5月5日まで西部一帯の戦闘を指揮していたが、旧満州から河北省に侵出する日本軍の動向を注視した毛澤東は紅軍を山西省から撤退させた。そして、延安から国民党に国共内戦の停止、一致抗日の民族統一戦線の構築を提唱した。
そして歴史は~
12月に張学良による蒋介石の捕捉~内戦停止~国共合作~盧溝橋事変~抗日戦争勝利~再び内戦~中華人民共和国成立となってゆく。


*永豊小学校
2005年の里子を訪ねる旅は、山西省対外友好協会のドイツ語の通訳で、当時秘書長の陳三愛さんが同行してくれた。彼女には一人っ子の娘さんがドイツに留学中であった。

 協会が希望工程事業に協力して、この年で10年になる。希望小学校建設の現場に対友協の責任者が同行することは有ったが、これまでに失学児童支援の里子の家庭や小学校に同行することは無かった。陳さんは責任者として、この事業の状況を知らなくてはと考えた。しかし臨県のような辺鄙な地方に行くのは初めてと、緊張の様子だった。

 最初に訪ねたのは、玉坪郷の里子が通う永豊小学校。すると何故か校門の鉄柵が鎖錠され、校舎に誰も居ない。日曜日でないのだが休校らしい。近くに人が居ないかと捜していると、道路脇の家の屋根で子供が丼を抱えて垃麺を食べている。そこで里子の名を言って児童の家を聞くと、すぐ近くだと屋根から降り、丼を持ったまま案内してくれた。黄土高原の細い道をジグザグに登って行くと、黄土の崖に掘られた窰洞に着いた。野菜が植えられている狭い庭に子供が二、三人遊んでいる。里子の名を呼ぶと窰洞から男の子が出てきた。すぐ後に両親が付いてきた。親に聞くと子供達はみな里子の兄弟だという


「貧乏人の子沢山」とはこの事か、これでは下の子まで学費が廻らない。この家庭の実体を見た陳さん「一人っ子政策は完全に失敗だ」と驚きの声。彼女は「お上の政策」を忠実に実行した。「上に政策あれば、下に対策あり」で、「軒が低ければ、頭を下げて通る」のが中国人だ。陳さんぶつぶつ言っていたが後の祭り。


 翌年訪ねた高家塔村の小学校に里子が在学していた。その春には高家塔村を一番に訪ねることにした。すると昨年に続き陳さんが、失学児童のことを詳しく知りたいと再び同行した。道中、私が前に行った時の話をしたが、彼女は解放戦争時に毛澤東が陝北から黄河を渡り、この地に渡岸したことは知らなかったが、その様な歴史の有る地方に来たことを喜んでいた。

 高家塔小学校に着くと、見覚えのある先生が「老朋友、老朋友」と歓迎してくれた。里子は八名だ。富士見市民からの学用品を贈り、陳さんを交え記念写真を撮る。その後、陳さんは窰洞の教室を見るのは初めてと、興味津々の顔で内に入って行った。天井からぶら下がっている裸電球が一つ。薄暗い洞窟の教室。黒板は黄土の壁に墨を塗っただけ。粗末な長机と長椅子で勉強している児童達。この状況を見て声には出さなかったが、都会との格差に驚いた様だった。

 その後、私は前に写真を撮った老人を捜しに一人で村に向かった。写真見て井戸の有る場所は分かったが、辺りに人影がない。
日差しが強く村人は窰洞の内かと歩いていると、河原に茂った林の中で五、六人の男が井戸端会議中。「ニーハオ」と近づいて行ったが、私の下手な中国語では通じないと思い、直ぐにバックから写真を取り出して渡した。老人たちは顔を寄せ写真を覗いていたが「不知道、不知道」の声。すると一人の老人が「我、我」と発した。周りの人はビックリしたが、私も驚いた。

 水を汲んでいたその老人は自宅が近いと招いてくれた。家は平らな土地に黄土を盛り固め、その周りを石で囲って建てた窰洞。内に入ると天然の冷房で涼しく、外の熱気が嘘の様な快適な空間。何人かとオンドルの上に座り、大きな丼で白湯をご馳走になった。

 もう一人、この村で毛澤東渡岸の話をしてくれた老人は、残念ながら捜す時間は無くなっていた。