山西省四方山話 47
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里子を訪ねて (6)

 山西省で「希望工程」事業の支援を始めた頃、臨県のような地方は宿泊する賓館も食事をする飯店にも冷えたビ―ルは皆無であった。今でこそ地方の屋台まで生ビールが普及し、冷たいのを飲むことができるが、その頃は飯店で冷たいビールを頼むと氷を付けてくれた。日本人はビールをオンザロックで飲まないが、中国人は平気でやる。氷を入れて飲むにはタイミングが難しい。早いと冷たくない。遅いと水ぽくなり旨くない。良く同行してくれる中国の友人はビールより白酒が好きだ。暑い時も寒い時もストレートで飲む。氷を入れたり、お湯割りなどしない。
*陽泉小学校
中国政府は、2005年頃から全国的に「失学児童」を救済する政策を進めてきた。そして地方にも実施され始め、臨県も失学児童は減少してきていた。私は共青団からその救済状況を詳しく聞いた。山西省は地方にも救済政策は実行されているとの話。そこで協会は、今後は学費の援助は中止し、在学している里子の卒業なで学用品等の支援を決めた。
 2007年5月、私は玉坪郷の陽泉小学校を県協会の菊地さんと訪ねた。その時、山西大学の馬靖宇さんに同行をお願いした。彼は大学で書道と二胡を教えている。そして外事處で通訳や出入国の仕事もしている。
 今回は、時間の許す限り一校でも多くの小学校を訪問することで、ダンボール箱5~6個の学用品を持参した。臨県に着くと、翌日から訪れる小学校毎に学用品や土産物をダンボールから取り出し仕分けした。この作業は意外と重労働。菊地さんと馬さんは毎晩この仕分けに汗を流してくれた。私一人ではとても出来る仕事ではなかった。
陽泉小学校は最後に訪れた。里子は男の子で二人在学している。職員室で待っていると校長先生は一人だけ連れてきた。そして、この里子は村で最も貧しい子だと言う。聞くと、両親は居ないというか、家庭が無いという。校長先生は詳しい事は知らない様だった。もう一人、不在の子は両親が二人とも盲目で、数日前から隣の陝西省に有る道教で有名な白雲寺の祭りに、両親と共に物乞いに出かけているという。私たちは翌日、その里子を捜しに白雲寺に行くことにした。校長先生は、寺の境内は広いし、参拝客も物乞いも多く出ていて見つけることは無理だという。その通りであった。(No6、物乞い。参照)
それから半年後の11月、山西省と友好関係にある日本の民間団体との交流大会が太原市郊外の晋祠公園で開かれた。そこに私は協会理事の岩本夫妻と三人で参加し
た。すると交流大会の責任者が韓和平さんであった。彼は1979年1月、私が初めて山西省の太原を訪問したときは日本語の通訳であった。その頃、旅行社の日本語通
訳は彼一人だけ、そこで私たちの訪問団に付くことになっていたが、その日は多忙とのことで、代わりに日本語の話せないドイツ語通訳の陳三愛さんが来た。
その事を今は省政府の幹部となった韓さんは忘れていなかった。
交流会で、私は今迄に協会が取り組んできた「希望工程」事業の希望小学校建設と臨県に於ける「失学児童」支援について報告した。会議に参加した団体が交流事業について発言していたが、富士見市日中友好協会の他に「希望工程」事業に取り組んでいる組織は無かった。
 交流会の後、私たちは里子を訪ねて臨県に向かった。今回も馬さんに同行をお願いした。運転手さんは山西省で最も運転が上手いと言われている崔さん。陽泉小学校に着くと陽は暮れかけていたが、校庭には何人のも児童が遊んでいた。岩本さんからお土産と学用品のプレゼントにみな大喜び。すぐに縄跳びで遊び始めた。この子たちは家庭の事情でみな寄宿舎生活をしている。校長先生は、この前不在だった里子を呼んで来てくれた。すると里子は両親に会ってもらいたい、家は近いという。校長先生も同行してくれ、私たちは喜んで訪問した。(No6、物乞い。参照)
 窰洞の家で両親や隣近所の人達と、時間を忘れての交流で辺りはすっかり暗くなってしまった。その日の宿泊は磧口鎮。馬さんに泊まる賓館に連絡を頼むと、彼は「没問題」と気にかけない。磧口客機に着いた時は八時を過ぎていた。この賓館は清代に建てた石造りの豪邸。部屋は豪華な石の窰洞で岩本夫人は大喜び。まずは飯とフロントに行くと、服務員の女の子は冷たく「没有」。料理人は帰ってしまったという。何か無いかと、お願いしても食事は用意できないという。仕方なく街に出て飯店を捜した。黄河沿いの通りに並ぶ土産店に灯りが無い。歩いてゆくと街灯の下に明るい店が一軒、覗くと娘さんが一人。店の棚に土産物とインスタント食料品が並んでいる。馬さんが食事のできる飯店が無いかと娘さんに聞くと、近くに食堂が有ると言い案内しくれた。渡りに舟と、皆で娘さんの後に付いて行った。狭い路地に入ると辺りは真っ暗で足下も見えない。灯りは先頭を歩く娘さんの持つ懐中電灯一つ。凸凹の道に気をつけ、はぐれないように付いて行った。しかし、着いた食堂は暗かった。娘さんが中に入り頼んでくれたが、店の主はもう竃の火は落としてしまったという。そこで外での食事を諦め、親切な娘さんの店でインスタント食品を買って戻った。
 賓館の食堂は私たちだけ、広い部屋の片隅に有る小さな石炭ストープを囲んで陣取った。晩秋の寒さで足下が冷えてくる。服務員の用意してくれた魔法瓶の湯でラーメンを作りながら、まずは地酒の汾酒で乾杯。馬さん、崔さんはコップでストレート。私は強すぎるのでお湯割りにした。二人は怪訝な顔で見ていたが、初めて飲む白酒のお湯割りは意外と旨かった。体も温まってきた。そこで馬さんに進めたが、中国人はお湯割りとか氷を入れて飲まない。二人とも飲んだことが無いという。そこで私はお湯割りを作り無理を承知で進めた。二人は神妙な顔で一口、二口飲むと「好喝」「好喝」。寒さが幸いしたのか、思っていたより旨いという。
 酒の肴は私が日本から持参してきたメザシ。それをストープの上で炙って二人に進めた。初めて日本の干物を食べた崔さん、こんな旨い魚は初めてと「好吃」「好吃」と喜んでくれた。主食はラーメンと菓子パン。しかし何となく楽しい晩餐会?であった。