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里子を訪ねて (8)

2001年9月、私は里親の3人と臨県に行った。その頃になると「失学児童支援」事業の事は全県の村々に知れわたっていた。今までは里子の在学する小学校を訪れる時は共青団員が同行してくれたが、今回は電話で連絡してもらい、私たちだけで出かけた。
 その時のこと、小学校を訪問のあと宿泊していた賓館に戻ると、見るからに農民と分かる中年の男が玄関の石段に腰を下ろしていた。共青団に聞くと、このオヤジさんは賀蘭曜といい、県城から40粁ほど離れた黄土高原にある賀家湾村から、失学している娘の宇債に援助をと頼みに来たのだという。私は賀家湾村は日中戦争で日本軍の三光作戦で全滅したと聞いていた村だ。共青団は今年度の援助は終わり、次の援助は来年に決めると告げたが、賀さんは子供に直ぐに勉強をさせたいと、朝から私たちを待って居たのだ。私は何とかしたいと責任者の王喜祥と相談していると、同行の宗さんが里親になると言った。これに感動した王さんは一年を待たず特別に承認してくれた。それを聞いて安心した賀さん、笑顔になって何度も「謝〃」「謝〃」と頭を下げ、家で採ったという生棗の入った大きな袋を二つ私たちに置いて行った。
 帰国後、私は賀家湾村にどんな事が有ったのか、「臨県志」で調べてみた。賀家湾村の欄に地形、気候、人口、特産物等が詳しく記載されている。軍事の項では近代の出来事として、民国33年1月14日~15日に日本軍が侵攻した三光作戦の状況が載っていた。そこには漢奸と共謀した日本軍が村民206人と近隣の村民11人を拉致し穀物倉庫の窰洞に閉じ込め入り口に柴草、綿花、唐辛子、煙草で塞ぎそこに火を放った。全員が生きたまま薫死。村の18家族は全滅しその家族は絶えてしまった、とあった。(私はそれから数年後、地元の人からこの事件の惨状を詳しく聞くことができた)
 
*李家山小学校~1

 山西省に広がる黄土高原には数えきれない窰洞(ヤオトン)が有る。省の西に位置する磧口鎮の李家山村はより高所にあり、村の麓から頂まで大小の窰洞群が何層にも穿かれ、国内で最も窰洞の美しい場所として有名だ。四季を問わず国内外から建築家、学者、写真家、美術学校の学生、観光客が訪れている。私が初めて訪れた時はまだこの村に里子は居なかった。窰洞を見に高原を登って行くと、村の到る所で学生たちが窰洞群のスケッチをしていた。
 2007年11月、私はこの小学校に里子が在学していると聞いて、協会役員の岩本さん夫妻、山西大学の馬さん、それにこの村に住み着き、戦中戦後と現在の情況をつぶさに調査している大野さんと李家山村を訪れた。小学校は高原の頂に有る。登る前に腹ごしらえと麓に有る窰洞を改装した飯店の入った。そこは私が半年前この村に来た時に開店した店で、大野さんの顔馴染の店。例によって主食は垃麺を、あとは「菜単」を見てもどんな料理か分からない。そこで何品か適当に注文した。直ぐに運ばれてきたのは春雨の入った野菜炒め。これが美味しかった。空きっ腹だからか、それとも鄙びた村で食うから旨かったのか。この春雨料理が気に入った岩本夫人、店の娘さんに日本で作りたいと材料の春雨が欲しいと頼んだ。すると厨房から主が両手で春雨の大きな束を抱えてきた。私は一掴みか二掴み買うのかと見ていると、岩本さんそれを全部欲しいと言った。主は一寸考えていたが、その日の春雨料理は出すのを諦めたのか、明日街に仕入れに行くからと言って全部譲ってくれた。
 満腹となった私たちは李家山小学校に向かった。車は黄河を右に見ながら黄土高原をジグザグに登る。頂に近づくにつれて窰洞が多くなってゆく。もう直ぐ頂かと思う所で崩れた崖が道を塞ぎ車が進めない。仕方なく歩いて登る。細い歩道は窰洞群の中を縫うように上に続いている。途中、窰洞の庭も通らせてもらい、車窓からでは見られない風景を堪能しながら山頂へ。
 頂に着くと李家山小学校は猫の額ほどの広場に建っていた。校舎は窰洞長屋で教室は一つだけで、あとは職員室と倉庫。覗いて見ると10人程の児童が授業中だが、先生は私たちに気が付くと授業を終えてくれた。教室の前に全員集まってもらい記念写真。そこで私は先生に里子は誰かと聞くと、先生はそんな子は居ないという。
二人が在学の話だと校長先生に聞くもその様な話は無かったという。このような山村では家庭の事情で中退したり、離村することも有るので、私は後で共青団に聞くことにして、再見!
 その後、大野さんが家が近くだからと招いてくれた。窰洞に興味のある岩本夫人は二つ返事。家は高原を少し下った所にあった。三穴の窰洞長屋で、左端が自宅で家賃は月20元と大野さん。右側は家主宅と教えてくれた。洞内は典型的なヤオトン造り、入り口の近くに大きなオンドル、その脇に竃が付いている、その煙と熱気がオンドルの下をジグザグに巡り、天井から外に抜け床が暖まる。台所の横に大きな水瓶。家具が少ないのか質素な空間。すると私たちの話声が聞こえたのか隣のオバさんが入って来た。そして我家も見てくれという。ヤオトンが嫌いでない私たちは直ぐに移動。室内の造りは同じ、しかし家財道具が多い分だけ狭い感じで、壁に絵やポスターから切りとった写真がベタベタ貼った派手な空間。辺りを見渡していた岩本夫人、めざとく見つけたのが台所に置いてある黒光りした竹のザル。米を研ぐのに使っているのか、何を入れても重宝な手頃な大きさ、見るからに頑丈で時代を感じる一品。オバさんに譲って欲しいと岩本さん。するとオバさん、これは私が嫁入りの時に母が持たせてくれた大切な物と、やんわりと断られてしまった。