山西省四方山話 43
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里子を訪ねて (2)

2000年9月、初めて臨県に行き里子の在学する小学校を訪問した。その後は毎年臨県に行った。その間に、小学校での里子と家庭訪問、地方政府の訪問、馴染み
の拉麺屋、通りすがりに入った小学校、村の人たちと、忘れられない出会いと交流があった。



*尭子坡小学校

この小学校は、県城から南に約20粁にある三交鎮を左折し、更に10粁ほど行った車?郷にある。この地方も黄土高原の上。街を抜け丘を登った所に小学校があった。校門の外で車を降り中に入ると、コンクリートの校庭。黄土は雨が降るとすぐにドロドロ、乾くと凸凹に固まるからか、この辺りの学校の校庭はレンガなどで舗装されている所が多い。中央に五星紅旗が掲げられている。その校庭を南北に挟んだ白い校舎は二階建て。西は黄土の崖。東を塀に囲まれた四角形の小学校。僻地にしては立派な小学校だ。







校長先生には、運転手の梁さんが通訳のいない私たちに替わって来校の目的を話してくれた。すぐに先生方が授業中の教室を廻り、里子を探して来てくれた。里子は5人、皆と並んで写真を撮っていると、教室から黄色い声が聞こえてくる。その声は次第に広がり、全校児童が騒いでいるようだ。何事かと廊下に出て見ると、児童が教室から出て職員室に集まって来ている。里親の来ているのが知れ渡り、授業にならなくなっていた。そこで校長先生は授業を中止して、児童全員を校庭に集めてくれた。「物見高いは人の常」は万国共通か、村の人たちも校庭に入って来ている。
全校児童は250人ぐらいか、整列させると校長先生は私たちを紹介し、「失学児童救助」事業の説明なのか暫く話をした。そして私に「挨拶を」という。私は最も苦手なのが「挨拶」だ。その上中国語も喋れない。考えている間は無かった。「同学們好!同学們好!」と、口から出たが後が続かない。何か言わなくてはと「努力学習、天天向上・・・・・。再見、再見!」と。スローガンの様な単語を並べて終えた。冷や汗ものであった。







その後、郷政府から昼食に招かれた。役場の職員食堂は狭くはないが、例によって訳の分からない関係者も居て満杯。食卓は有るが椅子が足りない。そこで先生は近くの小学校から児童に椅子を運ばせた。料理は名物の刀削麺。山西の麺は何処で食べても、どんな麺でも美味しい。
食べながら外を見ると、椅子を運んできた児童たちが遊んでいる。この村も二食なのか、それともこれから家に帰り昼食なのか。何か児童たちに申し訳ない気になった。食事が終わると児童たちは跡形づけを手伝い、そして椅子を運んで行った。
帰国して暫くすると、呂引弟校長から礼状が届いた。そこには「挨拶」の事が次のように書いてあった。「素朴な短い言葉には児童を励ます心がこもっていて、皆の心の底まで浸み込んで行った」と、あった。


*槐樹坪小学校
この小学校は、臨県の県城から西へ約15粁の青涼寺郷にある。この郷を通る道路は西の黄河に至る。対岸の陜西省佳県にある白雲寺は有名な道教の寺。縁日には山西からの参拝客も多く道は混雑するという。小学校は郷の街から数粁東に離れた所に有る。校舎は道路に面した黄土の崖に掘った窰洞(ヤオトン)。南向きに教室が幾つか並んでいる。4人の里子と、遠く離れた村の小学校から3人の里子が集まっていた。校長先生は、まだ他の村にも何人かの里子が居るが、遠くて今日は来られない。そして小学校の無い村の児童はこの小学校の寄宿舎に入る、と説明してくれた。
何時ものように里子を囲んで記念写真。私たちは里子の家を訪問したいとお願いした。先生は児童の高小艶の家が近いと案内してくれた。この子の家も窰洞。入り口の暖簾を分けて入ると薄暗い。裸電球が一つ天井からぶら下がっている。見ると奥のオンドルに小さい人が座っている様子。私は瞬間その姿が越後のお寺で見た即身仏の様に思えた。直ぐに小艶が「媽媽」と教えてくれた。盲目で今は病気になり何時もは寝ているという。挨拶をと近づくと背丈は子供の様。私は両手でその手を握ったが、話しかける言葉が出て来なかった。子供が就学出来なかったのも無理は無いと思った。
帰る間際に父親が野良から戻ってきた。私たちに何度も何度も「謝謝」と言う。今でもその笑顔が忘れられない。別れる時、私は幾らかの札を入れた封筒を父親のポケットに入れた。高さん親子は私たちの車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。