山西省四方山話 39
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「老趙さん」、「小趙さん」

1994年に留学生を引率した時は、山西省が初めてという辻さん親子が同行した。

小趙さんが実家に里帰りするので一緒に行かないか、と誘ってくれた。彼の故郷は山陰県で省の北方にある。辻さんが見学したい雲崗石窟がある大同に近く、私たち
は二つ返事でお願いした。

この時も梁さんの運転する車で出かけた。太原の街を抜け北に向かった。広い幹線道路は所々舗装が剥げ、砂利道の所もありスピードが出せない。先を急ぐ旅でもなくのんびりと走った。

山陰県に入り、広武の万里長城を眺め、草原に広がる漢代の墓群を散策したあと、県城に入った。街の大通りある信号機は消えている。繁華街も人通りが少なく閑散としていた。そんな街の外れを曲がり東に向かうと、旧い家並みの路地が続いた。小趙さんはまだ明・清時代の建屋も残っているという。彼の実家はそんな街の外れにあった。

家は日当たりの良い平屋。広い庭に果樹が数本植えられ、その枝に幾つも実を付けている。出迎えてくれた両親に案内され部屋に入ると、そこには朝から二人で包んだという餃子が大ザル二枚。早速、茹でたてをご馳走になる。辻さん親子は中国の手作りの水餃子は初めてだ。美味しい、美味しいと箸が止まらない。満腹になって娘さんも大満足。

ご馳走になったあと、大同に向かった。すぐに懐仁県に入る。その地には焼物で有名な呉家窯鎮がある。陶芸家の辻さんが見学したい村。幹線道路を左折し田舎道を走ること数十分。高い煙突がある村が見えてきた。着いた工場は想像以上に広かった。しかし人影が無く閑散としている。事務所に行くと、年配の男性が陶器は手が掛かり、需要も少なく採算が取れないので、現在は制作していないという。主な生産品は瀬戸物の食器類だと説明してくれ、そして工場の中を案内してくれた。薄暗い工場に入ると、裸電球の下で女工さんが皿に絵付けをしている。炉のある現場には働く人もいて、幾つもの皿を乗せた長い板を担いだ若者たちが列をなして入って行く。粘土の塊が動くベルトの上の型に入り、機械の中を通り皿となって出てくるオートメされた現場もあった。辻さんは初めて見る大工場の生産現場。興味津々と時間を忘れて眺めていた。現場を見たあと案内された展示室には、陶器の大壺や芸術品の数々が陳列されていて、彼女は大満足の見学であった。

その後、大同城内に入り華厳寺などの名所を見学して雲崗賓館に入る。夕食は外に出て筋向いにある飯店へ。辻さん親子は、昼間の餃子の食べ過ぎで食欲なし、夜は絶食と部屋で休憩。男だけで出かけた。

大同は「美人」が多いとの噂を聞いたことがあった。定かではないが、古代から異民族との交流がある故か。

飯店に行くと、出迎えてくれた娘さんたちは皆、背は低くなく高くなく、噂通りの美人揃い。席に着くと、私好みの丸顔で色白の娘さんが、真っ黒なワカメの様な炒め物を持った来た。食べると野菜だ。聞くと、紙に「苦菜」と書いて体に良い野菜だという。私は初めて食べた味、野草なのか歯ごたえがあり、何となく体にいい感じの菜っ葉だった。

次の朝になっても、辻さんは腹の調子が回復しない。今日一日は絶食と部屋で休養。

私は小趙さんと南郊区にある万人坑へ(No4,参照)。見学のあと、内モンゴルとの境界にある万里長城に向かった。長城に近づくと、昔の関所なのか小さな村、そこを通過して内モンゴルの豊鎮市へ。郊外の丘の上に建つ小さな寺廟を参拝し東に向かった。

見渡す限りの草原に入って行くと、遥か南に山西との境界の山脈が横たわっている。それと並行に東から万里長城が延びてきている。遠くに眺めていると、それは黄土を盛って築いた土手のように見えるが、所々崩れ雑草に覆われ長く延びた姿は、傷を負って倒れた大蛇のように見えた。その背中に見張り台の様な盛り上がった箇所がある。それは柱の役目で長城が倒れない為と、梁さんが教えてくれたが、長城が倒れるのか不思議だった。登ってみると高い所で四、五米ぐらいか、何処の川原にもある土手と同じであった。

長城に沿って走って行くと村が見えてきた。ニワトリの親子が道に出て遊んでいる。地図を見ると「長城村」とある。そこを過ぎ山西の陽高県に向かう。

県城に入ると昼めし時。例によって拉麺のできる店を探した。小さな飯店の前で子供がジャガイモの皮を剥いている。子供に聞くと中に人が居るという。入るも店には誰もいない、厨房に行くとオヤジさんが一人、何か作っている。湯(スープ)の拉麺ができるか聞くと、時間はかかるが作ると言ってくれた。

私は陽高は初めてだった。どんな街なのか、一人で散策に出かけた。ぶらぶら歩いていると、道路脇の日陰で若者が数人屯している。見ると、道に何か広げて売っている。手招きするので近づくと、それは羊の皮だった。「買え」と言うので触ってみると、しっとりした感じ。ハエが点々と集っている。すると一人の若者が立ち上がり、毛皮を持つと裏返しにした。毛皮はまだ「生」だった。脂ぎった裏一面に所々

血の跡もある。若者たちは口々に「今朝、剥いできた」「新鮮だ」「安くする」と話しかけてくる。私は空いた口が塞がらなかった。日本人だと言っても通じない。紙に「日本人×」と書いて見せると、諦めたのか笑いながら両手を広げた。

飯店に戻ると、注文通りの拉麺が出来ていた。待ってくれていた小趙さんと梁さんに、私がいま会った若者と羊皮の事を話をした。そして最後に「中国は何でも有りだ」と言うと二人は頷いて笑っていた。

それから数年後、小趙さんは来日し立教大学に留学した。(現在、天津市の南開大学教授)

そして、十数年後に民族的偏見のない、心優しい老趙さんは亡くなった。