山西省四方山話 32
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瓜子儿

 1979年1月、私は「日中友好埼玉県訪問団」十数名と昔陽県の大寨を訪問した。すでに文化大革命は終わっていたが、「農業は大寨に学べ」のスローガンに興味を持っていた団員もいて、その余韻とか面影が残っていないか期待していた。しかし厳寒の村に人影も少なく閑散としていた。農村に不似合いな大きな建物が目立ち、農業の典型と言われた高原の段々畑も黄土が掘り返されているだけであった。

 夜、通訳の王さんが映画会があると部屋に入ってきた。字幕も吹き替えのない戦争物というので、希望者だけで出かけた。会場は近くにあった。狭い場内にしては舞台が広い。文革時には、威勢のいい劇が繰り返し演じられていたのだらう。私たちは前の席に案内された。暖房の無い会場は寒さで足元がシンシンと冷えてくる。映画が始まると、場内のあちこちから、カリカリともパチパチとも聞こえる小さな音がしてきた。ネズミが椅子でも齧っているのか、そんな奇妙な音は映画がハネるまで続いた。

 場内が明るくなり、私たちは最後に席を離れ出口に向かった。その通路を見て驚いた。足元に広がるゴミのような籾殻。それは座席の間にも敷き詰められた状態である。王さんン聞くと、南瓜やヒマワリの種で「瓜子儿」と言い、それを歯で割って中身を食べた殻で、昔からある安くて美味しい、庶民のオヤツだと教えてくれた。そのゴミは、映画を見ながら皆で齧った見事な残骸だったのだ。

 私が瓜子儿を初めて食べたのは1987年5月、山西大学に在学する留学生が五台山に行く時、私たち六人も招待されて乗ったバスの中であった。当時、道路事情も悪くバスもオンボロ。朝、大学を出て五台山に着くのは夕方。道中は長く、退屈なのを知っていたのか、随行していた山西大学の人達は瓜子儿を持ってきていた。出発して暫くすると齧り始めた。一粒口に放り込み、前歯で割って中身を食べ、殻を床や窓の外に吐き出す。行儀は悪いが器用なものだ。見とれていると、食べるかと一掴みくれた。
私たちも真似をして口に入れたが、うまく割れない。何とか割れても中身は粉々。手で掴み歯で割って身を取り出す。美味しい。面倒臭いがその繰り返し、いくら食べてもアキがこない。時間を忘れて夢中になった。これで中国人は病み付きになるのだらう。日本に帰って、リスの餌にするヒマワリを食べたが旨くなかった。本場物は香辛料とか塩で加工しているのだ。

 そんな瓜子儿にハマッタある年。私は老朋友の陳さんに呼ばれて、太原の五一広場から迎澤大街を水西門にある家に向かって歩いた。この大通りは、太原駅から西の汾河まで約5粁の直線道路。北京の天安門前の長安街より広く、中国で最も広い通りだ。しばらくすると右側にビルが見えてくる。迎澤賓館だ。その先の大きいビルは新館。コンクリートの板塀で歩道と仕切られている。それに沿って行くと、新館の正門脇で、歩道に敷いたムシロの上で何か売っている。近づいて見ると、色々な瓜子儿が小山になっている。その脇で娘さんが塀に向かってしゃがみ込んでいる。昼寝か、それとも体の具合が悪いのか・・
・と、見ると突然股の間から水が一筋流れ出た。私は行く手を遮られ立ち止まった。
水はなおも流れ出て、歩道から車道へと伝わって行った。振り向いた娘さんと目が合った。私は何か買わない訳に行かなくなった。腰を下ろし、うす紫色の南京豆を一粒摘んで口に入れた。塩味で美味しい。娘さんは私を日本人と見たのか、黒色は西瓜、白色は南瓜、縞模様はヒマワリと教えてくれた。西瓜の中身は紙のように薄く、南瓜はふっくらしている、ヒマワリは何種類か有ったが、香辛料のきいた粒の大きいのが旨かった。試食しながら、娘さんに何処から来たのか聞くと「○○○」。その辺りは太原郊外の農村地帯。そこから毎日ムシロを担いで来ているという。私は陳さんの家族と食べようとヒマワリを買った。紙袋などは無く、天秤計りの皿に山盛りの瓜子儿を、上着に両ポケットに入れてもらった。

 乾きかけたさきほどの一筋の水跡を跨ぎ「再見」、「再見」。

黄色い大地に育った逞しい娘さんだった。