1984年9月、埼玉県日中友好協会は山西大学に留学生の派遣事業を始めた。
当時、留学生の受け入れ業務をしていた大学外事処の留学生科科長は趙家言さんであった。趙さんは若い頃、中国の東北地方で仕事をしたことがあり、多少の日本語が話せた。その為か留学生を親身になって面倒を見てくれた。留学生は大陸性気候の急激な変化と極度の乾燥など、環境の変化で体調を崩した。趙さんは、食欲の無い生徒には日本的な食事を用意し、自宅で休養させてくれた。
私は留学生を引率し大学に行った時は、必ず趙さんの自宅を訪問した。その時、趙さんの奥さんは何時も食事を用意してくれた。毎年その事が続くと、趙さんは私と一緒に酒を呑み食事をするのが楽しいと言ってくれた
1992年に行くと、外事処の入出国管理科に山西大学卒の趙永東さんが働いていた。
彼は留学生の受け入れ業務と日本語の通訳が仕事であった。そこで私は趙家言さんを「老趙さん」、趙永東さんを「小趙さん」と呼ぶことにした。
その年も私は大学での仕事が終わった後、友人と五台山に行くことにしていた。すると小趙さんが、友人に腕のいい運転手がいる。彼の車で行くのが良いと進めてくれた。私は「渡りに舟」とお願いした。運転手は梁興武さん。省政府の仕事をしているベテランで、車も用意してきて来くれた。
出発を前に老趙さんが同行してくれるという。すると奥さんが、帰ってきた夜は家で食事をと、そして何か食べたい物があれば用意すると言ってくれた。私は好物の拉麺と小豆の包子をお願いして出かけた。
(No~16、「兵士の温泉」を参照)
その老趙さん、出かける時に汾酒(白酒)の小瓶二本をポケットに入れてきた。旅の道中に呑むのかと見ていたが、呑まない。聞くとこれは「メシ」だ、と言う。食事になると酒は穀物だ、飯と同じと呑み始めた。野菜には箸を出すが、麺や饅頭には手を出さない。老趙さん、旅の間の主食は全て汾酒であった。(写真、五台山の花・土産店)五台山など北の地方を巡り帰り着き、皆で老趙さんの自宅を訪ねた。(写真、右2趙さん)食卓の上にはラーメンとアンマンが用意されていた。期待道りの味、美味しく頂いていると、老趙さんが家内は麺を一本が二本、二本が四本と延ばすことが出来ない。俎板の上で一本、一本と、手のひらで転がし延ばしたという。全部で何百本か、大変な事をお願いしてしまった、と皆「感謝」「感謝」。
つづく
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