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 富士見市日中友好協会は1960年代から1985年まで、埼玉県日中友好協会の支部として活動してきた。

1972年に中国との国交が正常化されると、富士見市からも中国を訪問したい人、かつて住んでいた人から訪問の希望が増えてきた。そこで富士見市の協力も得て毎年のように市民友好訪問団を派遣してきた。

 そのような情勢のなか訪問した 人たちから、この街の支部を市協会に発展させる話がでてきた。その頃、友好事業の一つとして太極拳教室を開いた。当時は珍しいこともあってか、会場となった鶴瀬西小学校の体育館は老若男女で埋め尽くされる盛況であった。その参加者のなかに白髪の女性がいた。

 1986年、市協会の発起人が集まったとき須藤弘子さんはその一人で、太極拳教室にきていた白髪の女性の娘さんであった。須藤さんは子供のころ中国で育ち中国人が大好きだ。すぐに協会の役員を務め友好活動に積極的であった。

 1990年代に始まった中国の「希望工程事業」は、富める者が貧しい者を援助する活動で、協会も協力することを決め埼玉県と姉妹県省の山西省五台県にある上陽村に小学校を建てることにした。そして建築現場の調査や打ち合わせ、有志から集めた資金を託された須藤さんは山西省の現地に出かけた。


 1999年に上陽希望小学校が完成し児童と市民との交流が始まる。
そして富士見市立ふじみ野小学校と姉妹校となった。この12年間には水道施設・暖房施設の援助、2006年には廃校となった鶴瀬西小学校の机・椅子など100台を寄贈。

  

 10周年記念には卓球台を送り、校庭の整備の援助と交流を続けてきた。


 須藤さんの家系は山梨にあった由緒ある旧家で、生まれは東京だが中国育ちのお人好しのお嬢さんであった。子供のころ中国の生活もあってか、のんびりした所があり、訪問した中国でのエピソードにはこと欠かない。

 北京の万里の長城では車に足の指を潰され救急車に乗り、南京の城壁の修復ではレンガで手の指を潰し病院へ、空港では手荷物を盗まれる。小学校では子供と遊んでコケて腰を打ち膝を擦りむいた。そのことがあって須藤さんは中国に行くときGパンを穿いた・・が、年配のお嬢さんには似合わなかった。



 その頃、山西省の地方で小学校にも行けない失学児童の学費援助にも取り組んだ。省の西部、黄河が流れる辺りにある臨県は貧困県の一つで失学児童が多い。この地方に援助を始めた。

 この事業は、学費を援助する人を「里親」とし、援助された児童を「里子」と呼び、約10年間にわたって続けた。私はその臨県に須藤さんと何回となく行き小学校と里子の家を訪ねた。
須藤さん、このような山村を廻るのは初めてだ。辺鄙な村にある小学校に児童の宿泊部屋があるとか、通学に二日もかかる児童もいると聞いて驚いていた。

   

 そんなある年、二人で里子の多い樊家山小学校の訪問に向かった。そこは臨県の南部、黄土高原の中にある。宿泊した県城から車で約一時間、幹線道路を左折して高原を登ると招賢鎮に入る。ここは炭鉱で有名な大きな街だが、数日前に犠牲者が出た落盤事故で歩いている人も少なくひっそりとしていた。しかし昼飯にと入った食堂だけは音楽を響かせていた。

 この街を抜けると急な山道が続く。しばらく登って行くと谷間に架かる小さな橋が見えてきた。近づくと轍に泥水が溜まり車が通れない。

眺めていても埒が開かない、通訳の王さん、須藤さん、運転手と私の四人、崖から岩を運び轍に投げ込んだ。そして何とか渡れた。こんな道中で心配になったのか須藤さん「この様な所に人が住んでいるのか」と聞く。この辺り黄土に住む農民はみな窰洞(ヤオトン)に住んでいる。仕事が終わるとその中に戻って居るので段々畑に姿はない。「この様な山の上に学校が有るのかな・・」と、呟き信じられない顔。そのうち高原が開けてきて白い建物が見えてきた。樊家山小学校だ。須藤さんに笑顔が戻った。

 先生に里子との面会をお願いすると、校庭に里子のほか児童全員を集めてくれた。100人以上は居るという。これには須藤さんビックリ。

里子達や全員と記念写真を撮ったあと教室を見せてもらった。すると、こんな所に似合わないパソコン数台が教室の中に有る。児童の教材というが近くに住む日本人も使っているという。その人に会えなかったが須藤さんの名刺を先生から渡してもらうことにした。黄土高原の奥にも近代化の波が押し寄せてきていた。



 以前から、私は臨県に来ると必ず泊まる賓館がある、そこは県城の真ん中で目抜き通りに有る。夕食のあとは決まって夜店のひやかしに出た。そして行くと必ず寄る屋台がある。

 初めて私がこの店に入ったのは数年前。太原郊外の植樹に参加したあと、大同の植樹に向かう途中、臨県の里子に会うために泊まった。夕飯のあとも「麺」は別腹の私は同行の人と街にでた。立ち並ぶ屋台のなかに「蘭州牛肉拉麺」の看板を見つけた。店の主なのだらう若者が一本が二本、二本が四本と麺を延ばしている。それに誘われるように中に入った。夫婦でやっているのか、美形の奥さん素早く汚れたテーブルの上を片づけ椅子を用意してくれた。ここのビールも生暖かったが、熱いラーメンは美味しかった。しかし看板に反して牛肉らしい物は入っていなかった。食べ終わり代金を払おうとすると若者は受け取らない。通訳の王さんに聞くと、主の李さんが「この
地で日本人は珍しい、どんな人達なのか」と聞いたという。王さんは「この人達は山西省に植樹に来た。そして何年も前から臨県の失学児童に学費を援助している」と話した。それ聞いた李さんはひどく感動したという。



 須藤さんと行ったその夜も屋台の並ぶ商店街へ出かけた。そして例の「蘭州牛肉拉麺」に入った。須藤さんは道端にある薄暗い屋台に入るのは初めてのようだ。我々とは生まれも育ちも違う「お嬢さん」だ。少し戸惑っていたが進められた小さな木の椅子に腰を下ろした。李さんとは馴染み客となっていた私に、奥さんは黙ってジョッキを二杯運んできた。こんな地方にもいつの間にか冷たい「ビール」が進出していた。
続いて出てきたのは琺瑯引きの大きな洗面器。中には山盛りの豚の骨、太い背骨にまだアバラ骨が付いている、見るからにグロテスクな一品。それはお得意様ならではのサービス品だ。須藤さん箸を持ったが手が出ない。骨はラーメンのスープをとった出し殻だが、何種類もの香辛料が浸み込んでいて美味しい、ビールのツマミには最高だ。須藤さん流石に中国好きだ。恐る恐る手を出し骨に張り付いている肉をつまんで口に入れた。そしてその美味しさに箸は進んでいった。そして、やはり李さんはお金を受け取らなかった。今度は須藤さんが感動した。

「蘭州の牛肉ラーメン」は山西に来ると豚の味になるらしい?

 

 須藤さん、私に負けず中国のラーメンが大好きだ。しばらく本場の味にもお別れと帰国を前に太原でラーメンを食べに行った。何時ものより一回り大きな丼。麺がトグロを巻いて入っている。須藤さんはこんなにいっぱい食べられない・・と私の丼に麺を移し始める。麺は一本で作られていた。全部私の丼に移ってしまった。須藤さんの丼は空となった。



 須藤さんは、このような面白い話も多く残してくれたが、中国での生活もあってか両国の平和共存のため友好交流を発展させ、再び戦争をしてはならないという気持ちは強く、終生変わることは無かった。私をはじめこの願いに賛同した多くの人たちがこの協会に参加してきている。