山西省四方山話 31
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鯉 ・ 蟹

 私が初めて中国を訪問したのは1970年12月。二十数名の団員は全国各地から選ばれた労働者で、女性は一人であった。

 当時、まだ国交が回復しておらず、イギリス領の香港から入った。そこから広州~長沙~南京と列車で北上し、北京までの三週間の旅であった。

 その毎食のテーブルには、何種類かの酒が用意され、飲み物は全てサービスであった。それで朝から酒を飲む団員もいた。それを見た団員の一人が「ここの食糧も酒も中国人民の血と汗の結晶だ。タダだと思ってガバガバ飲むな!」と一喝した。

 旅も終わりに近く、厳寒の北京から帰路は航空機で南に向かった。着いた広州は夏日の陽気。ぶ厚いオーバーを脱いでも下は重ね着。冷房のないバスで郊外の人民公社へ。炎天下のなか汗を拭きながらの見学。広場の木陰で、赤子を背負った母親も雑じった農民たちが、青年を囲んで赤い表紙の毛主席語録を暗唱していた。その風景が印象的で今でも心に残っている。

 昼食は平屋の大きな食堂。食卓に運ばれてきた大皿には、見事な鯉が丸ごと乗っていた。上に薄い色のアンがとろっと掛かっている。鯉の中華料理は唐揚げしか食べたことの無い団員は興味津々。どんな味かと抓んでみると、淡水魚特有の生臭さ。茹でただけの薄味。身の中まで味が染み透っていない。急な暑さで食欲のなくなった団員は、鯉を食べると次第に無口となり箸が出なくなった。日本人の口には合わない味であった。席を立つ時、どの食卓の皿にも背中に小さな傷の鯉が残されていた。農民が丹精込めて育てた食糧を粗末にした我々は、申し訳ない思いで人民公社を後にした。

 そんなことのあった十数年後、私は太原の陳さん宅に呼ばれた時、魚の好きな私のために、生きた鯉を用意してくれるという。私は奥さんに濃い味の料理か、唐揚げをお願いした。彼女の料理の腕はプロ並みで、戦前の日本に長くいた義母から伝授されたのか、中華風「鯉こく」を旨く味付けしてくれた。

 1996年秋。私は友人四人と太原に行った。同行の高橋さんが大同の知人に会う予定もあり、太原から北に向かった。その日は五台山から応県の木塔、渾源の懸空寺を見学し、夕方大同に着いた。高橋さんの知人は石材店の社長で、仕事で日本に来た時、高橋さんに通訳を依頼したという。その夜、社長は私たち四人を食事に招待してくれた。案内されたのは大同で有名なシャブシャブ店。皆で囲んだテーブルには大きな鍋が用意されていた。その中は波状に仕切られ、スープが激辛と甘口に分かれている。タレはこの地方独特の香辛料のきいたゴマ油。高級な羊肉もタレを付けるとギタギタとなり、肉の味が分からなくなる。私はシャブシャブしただけの肉が旨かった。羊肉が無くなると、最後に黒い拳大の塊が乗った大皿が運ばれてきた。見ると鯉の頭だけが十数個。

幾つかはまだ口をパクパクしている。それをスープに入れて食べるという。中華風「鯉こく」だ。これも当地の名物というが、肉と魚の混じり合った奇妙な味で、美味しいものではなかった。

 2000年から失学児童の援助で行くことになった臨県。その西には黄河が流れている。神話の時代から伝説にある黄河の「登龍門」、その鯉は有名だ。その辺りにある郷、鎮には鯉料理店が多い。ある年、高家湾村の小学校に通う児童を訪ねた。昼食をと飯店を探していると、小さな店の屋根に「名物黄河鯉料理」の大きな看板。入ると狭い部屋に丸いテーブルが四、五台。「菜単」を見ても分からない。そこで名物という黄河の鯉を頼んだ。出てきたのは陶器の鍋、その中に鯉が丸ごと沈んでいる。今までこの手の料理で美味しい物に出会ったことはなかった。しかし天下の「黄河の鯉」だ。期待してまずは一口食べる。やはり味は薄く生臭い。予想していた味で旨くなかった。

 中国でも「名物に旨い物無し」か。

 黄河の川原にテント張りの屋台が並んでいた。覗きながら歩いていると「名物黄河蟹」の立て看板。小さいのは沢蟹からモズク蟹ほどの奴を4~5匹づつ串に刺して焼いてある。私は蟹や海老は焼いたり煮たりすると赤くなると思っていたが、その蟹は黄河の色が染み込んだのか、同じ黄色だ。食べてみたいと思ったが、何でも「有り」の中国だ。「着色?」か、と思うと食欲が無くなった。

 その昔、私はある中国人から「色の付いた鯉」は美味い、と聞いたことがあった。その内、この地で金色の錦鯉が「名物黄河鯉料理」として売り出されるかも知れない?・・・どんな味か楽しみだ。