1979年1月、初めての山西省は、北京~石家庄~太原と夜行列車を乗り継いでの旅であった。早朝に着いた太原駅のホームに出迎えてくれたのは、旅行社の陳三愛さん一人。しかし彼女は日本語は話せなく、独語の通訳であった。そこで通訳は北京から随行の王さんだけとなった。陳さんに聞いてみると、山西省に一人だけ日本語の通訳は居るが、多忙で同行できないという。
最初の見学は、五一広場に近い山西省博物館。純陽宮という道教の寺院をそのまま利用した珍しい博物館。外観も素晴らしく、陳列物も悠久の歴史を感じる文物が揃っていた。
参観を終え外に出て驚いた。門の前に止めて置いたマイクロバスの周りに黒山の野次馬。何とか車に乗り込み昼食の飯店に向かった。近くにあったその店は刀削麺で有名な「晋陽飯店」という老舗。暖かい店内にホッとしていると、窓際にある丸いテーブルに案内された。椅子に座り外を見ると、窓に人の顔、顔。マイクロバスを囲んでいた野次馬が後を付けて来ていた。日本人が珍しいのかアッという間の人だかり。
当時は、店員を「服務員」と呼んでいた、そのお姉さんは人民服。アルミの大きなヤカンを下げて来て、杯子(コップ)に茶色の水を注いでくれた。まずは皆で乾杯!と飲むと、冷たい麦茶のような味。お茶なら暖かいのが欲しいと王さんに頼むと、これは「ビール」だという。泡が無くヤカンで注いでくれたので誰もビールとは気が付かなかった。名物の刀削麺が出てきた頃、外の景色は我々を覗く顔で見えなくなっていた。すると同行の小山さんと森田さんが「この野次馬の中には、戦時中に脱走した日本兵が混じって居る」「いや元日本兵は、こんな近くには来ない。遠くの物陰から見ている」と、話し始めた。二人は日中戦争が始まると、河北省に派遣された元日本兵。この地方で亡くなった戦友の供養と線香を持って参加していた。「我々を見ているこの人波の中に、元日本兵は必ず居る」と言うのが、二人の結論であった。
それから数年後の夏。私は北京の王府井を散策した。その夜は陽が沈んでも蒸し暑かった。ぶらぶら歩いていると、道に面した飯店から賑やかな声が聞こえてきた。覗いて見ると客が大きなプラスチックのジョッキで生ビールを飲んでいる。眺めていると飯店の横にバキュムカーが止まった。すぐに中から男が出てきて、車からホースをはずし店内に引き摺り込んだ。汚水でも吸い上げて行くのかと見ていると、男が手を上げ運転手に合図した。するとホースの先を差し込んだ大きな桶に茶色の水が流れ込んだ。アッという間に桶は真っ白な泡に覆われた。店内の客は、その気の抜けたビールを飲んでいたのだ。
太原に行くと、老朋友の陳さんは必ず家に招いてくれる。その年も山西大学に居ると「ビールを飲まないか」と、電話で呼ばれた。真昼間であったが、ビールの好きな私は二つ返事で出かけた。例によって奥さんの手料理が食卓に並んでいる。そして久しぶりに見る二人の娘さんも座っている。もう小学生になっていた。酒の強い陳さんは、まず汾酒を杯子に注いでくれた。二人で「乾杯」と飲み始めたが、子供達は箸を持たない。私が料理を食べ始めると、二人も食べる。私が食べないと、二人は箸を持たない。気になるので陳さんに聞くと、中国では客より「先に食べない」「多く食べない」のが礼儀だと。小さい頃から躾けているという。
汾酒は進んでもビールが出てこない。「ビールは」と聞くと、陳さん食卓の下から派手な絵柄の魔法瓶を持ち上げた。コルクの栓を抜いて杯子に注いでくれたが、泡がない。色はビールだが味は麦茶だ。それは初めて太原に来たときに晋陽飯店で飲んだ、あのヤカンの「ビール」と同じであった。
陳さん、「ビールは旨くない、これは水と同じだ」と言いながら飲んでいる。魔法瓶が空になると、私を「ビールを買いに行こう」と誘った。後を付いて行くと、古びた商店が並ぶ一角に酒屋はあった。入り口に垂れ下がった分厚いビニールの暖簾を分けると、白酒特有のツーンと鼻にくる臭い。狭い土間に酒の入った大小の甕が並んでいる。棚には瓶詰めの酒が飾ってある。そこはまるで魯迅の小説に出てくる世界。酒好きは「阿Q」が現れても不思議でない、そんな歴史を感じさせる空間だ。
甕の蓋には小さな杓子と皿が乗っている。手慣れたもので陳さんは、蓋を取り杓子で小皿に酒を汲み試飲。私も真似をして飲んでみる。色は同じ白酒も値段によって味も香りも違う。小さな壺の茶色い酒は紹興酒か、そんな味がした。
一通り味見が終わると陳さん、店員に「ビール」という。何処に有るのかと見ると、土間の隅に大きな桶。そこから茶色の水を杓子で汲み魔法瓶に入れた。
今度太原に行った時は、まだその酒屋が有るか陳さんに聞いてみたい。 |
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