山西省の西河頭村に有る地下道は有名で、今は観光地になっている。文化大革命の時期、この地下道が舞台となった映画「地下道戦」が日本で公開された。そこで富士見市日中友好協会でも上映会を開いた。
それは1947年の国内戦争の最中、解放軍に協力した村人達が短期間で掘り上げたもので、全ての村民が地下に潜れる大規模なもの。その地下道を活用し兵士と共に国民党軍と戦った内容だった。私はその映画を見たこともあり、一度は西河頭村の地下道を見たいと思っていた。
1996年初秋、五台山を観光したい友人と寄ることができた。案内板の説明には、地下道は三層に掘られ、三条に分かれ、五十余の支線が有り、総延長は十粁米と書いてある。
私たちは帽子にヘッドライトを付け、炭鉱夫のような格好で地下に降りて行った。まだ残暑の熱い日であったが、黄土に掘られた地下は窰洞(ヤオトン)に似た快適な空間であった。地下道は複雑で細かい所までは見ることが出来なかった。終点から外に出ると、そこは村の外れなのか帰り道が分からない。通りかかった学校帰りの小学
生に聞くと、親切に私たちを入り口の近くまで案内してくれた。
中国は文化大革命のなか、各地で来るべき世界大戦を想定し、原爆に備えた地下道が盛んに掘られ、現在も多く残っている。文革が終わると、それらが観光名所となりガイドブックに載っていた。
1980年頃。北京の繁華街の一つ、大柵欄の百貨店で売場の床が開き、そこから地下道に案内された。そこは思っていたより広く、地下道は直線に延びていた。通訳は、今や無用の長物だという。私は歩きながら、この道を通勤ラッシュ時に自転車の専用道に活用すれば・・・など思ったりした。また大連では、港を一望する山の中腹に掘られた洞窟状の地下道が、観光客相手の土産店と化していた。
1987年春。山西大学に行った時、外事處の職員に大学の近くに地下道が有るか
聞くと、校内の中央にあるグランドの下が地下道と教えてくれた。早速行って見ると、グランドを囲む金網の塀の横に入り口があった。降りて行くと学生達がタムロしている。先に進んで行くと両側が部屋となって続いている。学生に聞くと今は招待所に改造され、友人や親戚など来客が利用しているという。他にも有るか聞いてみると、太原市内の五一広場とか太原駅前が掘られたという。
そこで、元兵士で地下道に興味を持っていた倉川さんと、大学の西門からトロリーバスで出かけた。終点で降り目の前の大道りを渡ると五一広場。地下に降りて行くと賑やかな雰囲気。そこは洋品店、日用雑貨店などが軒を連ね商店街となっていた。どの店もラジオのボリウム一杯の音楽。あまりの騒音で早々に退散。
地上に出て太原駅に向かった。駅前に行くと、大道りの歩道脇に地下鉄に乗るような入口があった。降りて行くも何も聞こえて来ない。静かだ、しかし料理の香辛料か油なのか、何か分からぬ異様な臭いが充満している。どうなっているかと進んで行くと、両側に小さな飯店が並んだ食堂街。奥に行くも同じような店が続いている。そこで麺でも食べて行こうと二人で店には入った。テーブルが四・五台、客も店員もいない殺風景な店内。「ニーハオ」と呼ぶも発音が悪いのか返事がない。すると奥から薄汚れた前掛けの無愛想なオヤジが出てきた。テーブルにあった「菜単」を見るも、知っている麺の名前がない。餃子か饅頭はあるかと探したがそれもない、麺だけだ。
仕方がない適当な「麺」を指差し注文した。しばらくして運ばれてきたのは、大皿に山盛りの黄色いウドン。具は乗っていない。まるでパスタ料理だ。テーブルの上に調味料はなく箸立てだけ、そこに洗ったかどうか分からない色の箸が詰まっている。一口食べると、塩も香辛料も入っていない薄味。麺の味は油の臭いに消され分からな
い。油のギタギタだけが口に残った。茹でた麺に油を絡めただけ、旨くない。私も倉川さんも言葉が出ない。麺の好きな二人も箸が進まなかった。
豚肉も脂身の多い所を好む山西人は、こんな油漬けの「麺」が好物なのか、私たちには合わない麺であった。大学に戻り、外事處の人に聞いてみると、そのような麺には酢を掛けたり、生のニンニクを噛りながら食べると旨いのだ、と教えてくれた。
あれから27年が過ぎた今、まだそんな「油麺」が有るか分からないが、また山西に行って、生ニンニクを噛りながら再挑戦してみたい。 |
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