山西省の「旅」は何時も太原市にある国際旅行社に依頼している。1980年代も終わる頃、旅行社の陳徳朝社長に招かれ市内にある自宅を訪ねた。すると、今から太原に有る名所などを案内してくれると言う。
早速車で出かけた。近くにあるイスラム教の清真寺を眺めて省政府へ、その建物はかつて山西省を支配していた閻錫山の豪邸、車でその邸内を一廻り、“馬上看花”だった。
陳さんが、郊外に小さな寺が幾つか有るというので城外に出た。北に向かい砂利道を走った。着いた寺は森の中に有った。古刹だというが修繕しないのか、破壊されたのか、山門や寺院は荒れ果てていた。山門から入って行くと、労働者風の若者数人がお堂の前に腰を下ろしメシを食っている。私たちに気が付くと、その一人が強い口調で「坊主は居ない、奥の建物にも人が住んでいる」と、寺から追い出されてしまった。仕方がなくUターンし、城内に向かった。
解放後、取り壊された太原城の城壁が一部分、北に残っていた。その城壁の残骸を見ながら城内へ入って行くと、すぐに日本的な城があった。門柱には解放軍の看板。そこはかつて太原を占領し、日本が建てた軍の総司令部跡。その横に日本軍の戦犯が収容されていた監獄があった。見に行くと取り壊しているので、近くにいた人に聞くと住宅地にするという。
城外に出て東へ、近くの黄土高原を登ると牛陀寨。そこは眼下に太原市が一望できる場所。解放戦争で犠牲になった兵士を祭る烈士陵園が有った。広大な園内には資料館と陵墓。そしてコンクリートの塔、高さは四、五十メートルはあるか、しかしその形が変わっていた。それは「鍵」の形という。なぜその形なのか。解放戦争時、この地は解放軍の陣地。下に見える太原城そこに陣取る閻錫山の国民党軍と日本軍を攻撃し、城壁をこじ開けた「鍵」なのだ、と説明してくれた。
その高原を一旦下り、南に走り双塔寺のある高原に登った。山門の右側は黄土の土手が続いている。この寺も戦争に巻き込まれていた。今もその傷跡である砲弾の穴が幾つも土手に残っていた。境内に入ると庭園に多くのボタンの樹があった。その樹の中には明時代からのも有るというのだが・・・?だ。双塔を見ながら裏に廻り、寺の横にある烈士陵園に寄った。そこには新中国の建設に貢献した人々が奉られていた。遺影などを納めた館内には別室が有り資料館となっている。近代の歴史紹介、抗日戦争、解放戦争時の写真、武器などが展示されていた。私が興味を持ったのが、旧い太原市の大きな航空写真。初めて見たその太原城の全貌は、今まで私が書籍や地図で見ていた風景でも形でもなかった。城壁に囲まれた家並み、城外に広がる田園風景、鉄路と太原駅の位置など、航空写真でしか見ることが出来ない旧い太原城の全景に、時を忘れて眺めていた。
黄土高原を下り再び城内へ。孔子を祭る文廟と千手観音で有名な崇善寺を参拝したあと、明時代からの老舗が在るという食品街へ。古い建物が軒を重ねている街並み、その一角にある醤肉の「六味斎」、清真餃子の「認一人」、頭脳(スープ)の「清和元」など、有名な老舗を覗きながら散策。食事に入ったのは四川料理屋で旧い中国的な建物。二階に上がり窓際の席に座る。すぐに胡瓜が丸ごと五~六本乗った皿が運ばれてきた。まずはビールで乾杯、しかし胡瓜はツマミではないらしく陳さんは手を出さない。料理は一人一人に小さな椀で出てくる。食べ終わると次の料理が来る。どれも本場の四川料理、激辛で口の中は火が付いたよう。そこで胡瓜を一口噛る。その繰り返しで何本もの胡瓜が用意されていたのだ。終わりなのか垃麺がきた、それにも真っ赤なタレが掛かっているパスタ風。山西名物の麺も四川料理では単なる激辛ウドンに化けて、食べるも麺の味はただ辛いだけであった。この麺で最後かと思っていると、今度は大皿が出てきた。皿には大きな魚の尾だけが乗っている。Y字形の尖った尾の先は皿からハミ出ている。どうも淡水魚だはなく海水魚の感じ。何という「魚」なのか、陳さんが店員に聞くも分からない。尾は蒸してあるが食べられるような肉が見えない。張り付いている皮は堅く箸で剥がれない。何処をどうやって食べるのか、まったく分からない摩訶不思議な食べ物であった。それとも食べる物ではなく、これが最後ですよ!という品物なのか、分からぬままに私たちは席を離れた。
それから数年後、陳さんが仕事で来日し東京に来た折、富士見市を訪ねてくれた。そこで日中友好協会の人達と会食した。話が弾むなか陳さんは食卓に出た唐揚げの鯉料理を見て、太原の食品街で四川料理にあった「魚の尾」の話を始めた。そして未だその「魚」の名は分からず、謎の料理だと言った。
中国人で、こんな「魚の尾」の料理を知っていたら教えて貰いたい。
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