山西省四方山話 36
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葛餅?

2000年9月、臨県の寨則上小学校に入学した里子(学費を援助した児童)を訪ねた。
その日のことは「湫水河にて」に書いたが、今回もその時のこと。

安業郷に入って行くと、丁度村人達の朝めし時。この地方の農民の食事は一日二食。窰洞の外に出て、あちこちで思い思いに腰を下ろし丼めしを食っている。小学校に着くと校門に里子達が出迎えていた。校庭に入って行くと私たちの後に丼を持った老若男女が付いてきた。里子を囲んで全校生徒と記念撮影が終わると、一人のオバさんが私達に食事を!と、麺の入った丼を差し出した。麺に目のない私は朝食を済ましていたが、旨そうに盛られた麺には勝てなかった。しかし大きな丼一杯は食べられない。すると小さな椀を持って来てくれた。麺には山葯蛋(馬鈴薯)胡瓜、南瓜、隠元などが入った、手打ち煮込みうどん。「謝謝」「吃好了!」

その後、西に向かい黄河の辺にある磧口鎮に行った。そこは小さな鎮だが明・清時代の黄河の水運によって栄えた交易の街。旧い家が立ち並ぶ街道は石畳。そんな街の中を走り、細い路地に曲がる。すぐに小高い丘になり、坂を登ると磧口鎮政府があった。鎮長と教育長を表敬訪問のあと、今後の学費援助、富士見市民との交流など話し合う。

懇談が終わると食事に誘われた。街外れにあった鄙びた飯店は、鎮政府の役人と学校関係者、それに臨県から随行している共青団員と私達四人で満員。真昼間から白酒の乾杯で宴会が始まった。ここはかつて日中戦争時代、数次にわたり日本軍が侵攻した。その時に知った日本語を覚えている老人も多い地。役人の中に片言の日本語を知っている人も居たが、私が聞いても「過去」の事だと笑っていた。席には通訳がいないので筆談、あとは互いに身振り手振り。話が通じているかどうか分からないが、何故か宴は盛り上がった。中国人は客をもてなすのは上手く、自分たちも結構楽しんでいた。

宴も終わり、凸凹した石畳の街道を歩いていると、小さな店の前でドラム缶の炉の上に鉄板を乗せ、オヤジさんが焼餅を焼いている。店の中は奥さんか、木の型に具を詰め月餅を作っている。そこで写真を一枚パチリ、「再見」。しばらく歩くと路地が開け黄河が目の前に現れた。見晴らしの良いその場所に変わった店が出ていた。道端の売台の上にひっくり返した大きな丼が幾つも並んでいる。何か?と見ていると、店のお兄さんが「食べるか」と丼を返した。中に糊のような物がべっとりと張り付いている。聞くと、それは蕎麦粉を練り、丼に塗り付け蒸し上げたもので、ここの郷土料理だという。それを小刀で賽の目に切り、上に木耳や山菜の入った煮物を乗せてくれた。かき混ぜて食べてみるとクズ餅の食感、煮物の味とマッチして美味しい。黄粉と黒蜜を掛けると日本の葛餅と変わらないと思った。

帰国して暫くすると、磧口の劉燿楽鎮長と歴史家の王洪廷氏からの連名の手紙が届いた。そこに、王さんが編纂している「磧口志」に日本人の見聞した磧口鎮の感想などを掲載したい、という内容であった。そこで私は簡単な感想文と焼餅のオヤジさんなどのスナップ写真を何枚か送った。

その翌年から臨県の失学児童に学費援助を継続し、そして毎年その里子達を訪ねた。2005年に臨県の県城にある棗都賓館に宿泊していた時、王さんが「磧口志」を届けに来てくれた(写真、右端)。早速その厚い本を開いて見ると、中ほどに焼餅のオヤジさん写真が載っていた。その日、里子の通う小学校を参観した後、足を延ばし磧口鎮に行った。オヤジさんの自宅を訪ねると、相変わらず夫婦で焼餅を作っていた。
しかし二人は私を覚えていなかった。そこで「磧口志」の写真と、それを引き伸ばした写真を見せるとビックリ顔、驚きながらも二人は大喜び。

焼きたての焼餅をご馳走になり、また土産まで頂いた「謝謝」。「再見」「再見」。