山西省四方山話 30
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紅棗(ナツメ)

 中国で棗といえば山西省。中でも西部地方の臨県~柳林県辺りに産する「紅棗」は有名だ。特に黄河流域のそれは「灘棗」と呼ばれていて美味しい。

 しかし、その対岸にある陜西省の棗は「ここの紅棗は中国一」と宣伝している。店の看板には「毛澤東がここの棗を食べ、最高に美味しいと言った」と書いてある。これには山西人は面白くないが仕方がない。

 毛澤東は共産党と国民党との内戦時代「長征」の後、1935年10月陜西省北部にある延安に入った。その時代、共産党の紅軍は陜西省~山西省と各地を転戦、総司令部も移動している。当時の毛澤東は陜西の棗を食べていたのだ。

 その後、歴史は下って1948年3月23日。解放戦争の勝利を目前に毛澤東、周恩来ら幹部は陜西省を離れ黄河を渡り、対岸の臨県磧口鎮に入った。この地に二泊した後、山西省を北上し五台山に泊まる。4月7日河北省に入り北京に向かった。この16日間に毛澤東は棗を食べたに違いないが、巷にその話は残っていない。私も臨県誌、磧口鎮誌など調べたが、その様な記述は無かった。陝西と同じ味だが山西には毛澤東のお墨付きは無かった。

 この地方は人と棗の結びつきは固く、「棗は青いときは果物、干棗にすると長期に保存でき、飢饉の時には穀物の代用になる」と珍重されている。また「棗を一日三個食べていると一生老けない」という話も伝わっている。

 山西で端午節に食べる「チマキ」は、種を抜いた棗が入っている。1987年5月、私が初めて食べたのは太原の友人宅。それはバケツの中で水に漬かっていた。聞くと、昔から乾燥や腐敗を防ぎ保存もきくという。成程と思いながら笹のような皮を剥くと、白地の握り飯に黒い棗が点々のチマキ。味は大福とボタ餅の合いの子で甘党の私には美味しかった。

 1989年、旅行社の王さんが太原の近郊にも名所旧跡があると、私を案内してくれた。南に走り、道教の龍山石窟、佛教の天龍山石窟、交城県の卦山と巡った。そして県城に戻る途中、棗の好きな私に見せたい物が有ると、農業試験場に寄ってくれた。
そこは道路に面した小さな建屋、その中を通り裏に抜けるとすぐに緑の林が広がっていた。見渡す限り全て果樹だという。人の背丈ほどの果樹の間を入って行くと、小枝にアヒルの卵ほどの青い実が付いている。リンゴかと思ったが、案内の係員は改良中の棗だという。信じられない大きさだ。写真を撮っていいか、と聞くと両手で×。まだ試作中で市販していないのでダメという。どんな味なのか試食もできず、ただ見るだけに終わった。出てきてから「黙って写真を撮れば良かった」と思ったが後の祭
り。

 県城に入り二人で露天の市場をぶらぶら歩いていると、やたらと道路脇に小枝が捨てられている。良く見ると黄色い小豆ほどの実が付いている。王さんに聞くと“沙棘(サージ)”という。近くの高原に自生している野生の木で、実の付いている枝を切って来て売っているという。買った人は実を食べると枝を捨て、店の人も売れ残ると道端に捨てて帰ってしまうのだ。摘んで口に入れると酸っぱく、美味しいものではない。しかし、ビタミンが豊富なので、最近はジュースにして売り出され、人気がでてきたという。

 その日、泊まった飯店が洒落ていた。街から離れた閑静な所に場違いな真っ白な二階建て。聞くとこの地は、毛澤東の亡き後に国家主席となった華国峰の故郷で、この地の役人は華国峰は必ず里帰りに来ると考え新築したが、宿泊することは無かったという。その夜、私は一人で華国峰に用意した三間続きの広い部屋で寝た。

 そんな交城の「大棗」を見てから十数年後、大同の百貨店で大棗を見つけた。それは干棗となっていたが鶏卵ほどの大きさ。普通、棗は一斤何元と目方で売っているが、その大棗は高級品扱いで化粧箱に入り、高価な値で売られていた。私は食べない訳には行かぬと、店員に一個でも売るか、と聞くと「好」。しかし値段はえらく高かった。早速噛ってみると甘味も酸味も薄く、期待外れの大味で美味しくはなかった。

 やはり棗は“灘棗”に限る。