山西省四方山話 22
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貧乏神

  臨県の県城から南に数キロ行くと、左手の黄土高原に小さな仏塔が見えてくる。私が臨県を訪れてから何回かこの道を往復していたが、登って行く時間は無かった。

 2001年秋。里子援助に旅立ったとき、その機会に恵まれた。

 道路は高原を削り道を拡張していて、片側が絶壁となっている。その中腹に祠があり横に壁画が見えた。車を崖の脇に止め、黄土の縁に作られた細く急な道を登る。足を滑らしたら一巻の終わりだ。祠は崖の窪みにあり、参拝者がくるのか、祭壇には焼香のあとがあった。その先に仏様の壁画が二枚並んで描かれてある。手前のは最近修復したのか、中国人好みのド派手な仏様。奥には清代のものか、年代を感じる趣のある仏様であった。

 山頂の仏塔に行こうとしたが道はこの先で行きどまり。戻るより仕方がない、来た道を降りる。道路脇にあるテント張りの拉麺店で仏塔へ登る道を聞くと、店の若者が「近道を知っている」と、親切に案内してくれた。崖の間から細い道を登るとすぐに段々畑に入る。「今年は雨が無く作物が伸びない、今年も不作だ」と若者がいう。私は以前、この高原が

作物の緑で覆われているのを見ていたので、黄色い地肌を晒す高原に心が痛んだ。

 頂の仏塔は「清代に建てられた“東楡山塔“といい、奇麗なのは修理したから」と、若者が説明してくれた。高さは40米ぐらいか、塔頂からの眺めは「相望百里」。眼下の県城が四方から黄土高原に囲まれている。これは山西省の好きな私には堪えられない景色だ。

 塔の中は工事が終わっていないのか、至る所瓦礫の山、足の踏み場もない。“文塔銘記”と刻まれた石碑が一つ置かれていた。

 塔の周りには畑が広がっている。しかし作物は枯れ黄土が剥き出しになっている。そんな畑の隅に幾つもの土饅頭があった。白い紙の旗が立っているのは新しいものか、石の板で囲った小さな祭壇にナツメが供えられていた。私たちも幾つかの飴を置き手を合わせた。

 帰りは表参道を下った。すぐに集落が見えてきた、黄土に掘られた窰洞(ヤオトン)の村だ。近づくも人の気配がない。豚小屋も空だ。家の周りに植えられた棗がたわわに実を付けている。この地の棗は特産品で美味しい。食べながら歩いていると、鍬を担いだ老人が登ってきた。「ニーハオ」、「ニーハオ」、ここの農民だというので村のことを聞いた「この地は、昔から十年に九年は不作で貧しい村だ。主な作物はトウモロコシ、ジャガイモ。家畜は豚、鶏。近年は雨が少なく凶作続き、男は出稼ぎだ」と。通訳は太原から同行してくれた「私の陳さん」。たどたどしい日本語だが通じた。老人は話を続けた「村の役人達は風水の占いをした。すると“この禍が続くのは村の守り神である仏塔が汚れ、壊れといる”とのお告げがあったといった。役人は、作物の豊作を願い、村に福を呼ぶために仏塔の修繕を考えた。そして村人から工事費を強制的に集めた。金のない農民は家畜も売った。すぐに塔の修理は始まったが、雨は無く凶作の年は続いた。金も食べ物も無くなった農民は夜逃げした。修復が終わる前に、守り神の仏塔が貧乏神を連れてきてしまった」と、老人は嘆いた。続いて若者も「福の神は役人だけにきた」と。

 麓に下ると小さな村があった。ここの農家には人が住んでいるのだろう、豚も飼われていた。村の入り口には「東岳山村」の大きな看板が立ち、子供達が遊んでいる。そこで写真を一枚「パチリ」。

 それから5年後、その子供達に写真を渡そうと東岳山村を訪れた。村に入って行くも人の気配がなく閑散としている。ここにも貧乏神が来てしまったのか、どの;家も留守のようだ。人の居そうな家を探していると、屋根の煙突から煙の登っている家があつた。“トントン”扉を叩くも反応がない。“ドンドン”強く叩くと扉が開き、中年のオヤジさんが怪訝な顔をして出てきた。そして後からもう一人、歯ブラシをくわえた男がついてきた。写真を見せ「ここに写っている子供に持ってきた」と手渡すと、二人はしばらく覗き込んでいたが「これは俺の子供だ」とオヤジさん、一瞬にして笑顔になった。名刺も渡して「再見」、「再見」。 

 今でもオヤジさんの嬉しそうな笑顔が忘れられない。