山西省四方山話 24
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移 民

1985年、埼玉県日中友好協会は、友好県省である山西省太原市の山西大学に留学生を派遣する事業を始めた。

私は留学生を引率して何回か山西大学に行った。その都度お世話になった関係者の中に、教授の孫鳳翔先生がいた。孫先生は、戦前日本の大学に留学した経験から、山西省では日本語の第一人者であった。本科生の授業と留学生の業務も担当していた。その上、留学生の個人的な相談にものってくれていた。

当時、大学にはまだ留学生楼は無く、留学生は大学の専家楼に宿泊した。そこは外国から招請した教授の宿舎だが、私もそこに泊まった。

孫先生の自宅は、その専家楼の目の前にあったので私は度々お伺いし、山西省の話を聞くことができた。その中で特に興味を持ったのが「山西省歴史概況」“移民”の話であった。それは、約700年前の明朝初期のこと。それまで中国を支配した異民族の元朝時代、その過酷な支配により各地の農村は荒廃し農民は激減していった。その過疎地に山西省の農民を“移民”させた事業の事であった。そこで、詳しいことを「魂系山西」などの文献で調べてみた。

元朝の百数十年のにわたる支配の中で、絶えず領土拡張を進める為の徴兵、食糧の収奪等で漢民族との矛盾は次第に激化していった。それに加え自然災害が重なっていった。黄河の八度にわたる決壊と洪水、蝗害、疫病の蔓延。そして紅巾の乱など、農民暴動と一揆で農村は荒廃し、数百平方キロの土地に煙が立たない場所が続出した。

1368年、朱元璋が元朝を打倒し明朝を建国した。その新政権は食糧の増産が急務であった。当時、政治が比較的安定していた山西省には、各地の戦乱から逃れた大量の農民が流れ込み、人口は増加していた。明朝はその農民を全国各地の無人となった農村に移民させることにした。

洪武初年から永楽15年までの50年間、明朝の兵士は山西省各地から農民を拉致し南部の洪洞県にある広済寺に集結させた。寺の境内には漢代からの大槐樹が聳えていた。

移民させられた農民はこの地を去る時、大槐樹のあるこの地を故郷と決め名残を惜しんだ。

連行する兵士は移民の逃亡を防ぐため、後ろ手に縄で縛り何十人と繋ぎ護送した。その上、脱走しても捕まえれば分かるように、足の小指の爪を二又に裂き目印にした。
途中、移民達はトイレに行きたくなると、「解手」と兵士に告げ縄を解いてもらっ
た。

移民は洪武年間に10次、河北、河南、山東、安徽、湖北、北京など中原に移住させ、永楽年間には8次、その地域を陝西、甘粛、寧夏に広げた。その後、移民とその子孫は雲南、四川、貴州、新疆、東北三省にも移動し、全国20以上の省と400以上の県に広がって行った。

明朝政府のこの移民政策により、食糧の生産は次第に回復していった。

現在、中国各地にある趙城營、蒲州營、長子營、洪洞營などの地名は、移民たちが住んでいた山西省の村の名である。

そして、この移民事業は後世に興味ある伝説を残した。

移民の子孫は、両手を後ろに組んで歩くのが習慣となっているとか、足の小指の爪が二又に裂けている人の祖先は山西人だ、など。また俗にトイレに行くときに通用する「解手」という言葉は、今でも辞書に載っている。

このような歴史的大事業の話を孫先生から伺った。

1995年、私は山西省が初めてという富士見市の会員二人と、その大槐樹を見に行くことにした。太原での宿泊は、山西大学の新築した留学生楼に泊まった。すると留学生がお世話になる外事処留学生科の趙家言先生が、姪の賈さんをガイドにと同行させてくれた。三人は黄河を見たことが無いという。

そこで太原から南に走り黄河に近い臨汾に向かった。そこで、神話の神を祭った堯廟や鉄仏寺など見たあと、吉県を通り黄河に行き壺口瀑布を見学。その後、洪洞県にある仏塔の美しい広勝寺に向かった。門の前には大きな“霍泉”という池があり、隅から泉がコンコンと湧き出ている。私が数年前に来た時、その池に入り泉を飲んだり、顔を洗ったりできたが、今は柵で池を囲み泉に入れない。変わりに池の端で少年が水をバケツ一杯一元で売っている。バケツの水でも泉は美味しかった。

この寺に有る古い経典や壁画は有名だが、その後の山に聳える“飛虹塔”も中国四大名塔の一つとなっている。その高さ約40米。塔の外側に瑠璃瓦の武将や獣を張り付けてあり、それが夕日に映えると一段と美しくなる。上に登れるかと塔に入ると一階から二階までの階段が無かった。上層階の仏様などの盗難防止なのか、登るには梯子を持参という変わった塔だ。飛虹塔を見学して山を下りてくると、参道の階段で農民なのか裸足の親子がいた。子供は2~3歳か、石段に座りトーモロコシを齧っている。「ニーハオ」私たちが声をかけると、側に立っているお母さんがニッコリ笑ってくれた。そこで写真を一枚「パチリ」。

そこから孫先生から聞いた大槐樹に向かう。城内からほど近い公園の中にあった。入り口を入ると大きな照壁が目に入る。その中央に移民たちの故郷の意味なのか、大きな「根」の字が書いてある。進んで行くと石碑の並んだ碑亭があり、古い石碑に混じって新しい革命戦士の烈士碑も並び、青少年の階級教育の場ともなっている。

その奥に「古大槐樹處」碑と槐樹がある。思ったより小さい。漢代の木は枯れ今のは三代目であった。

その近くに、移民の子孫がルーツを訪ねる「祭祖園」堂がある。そばに“古槐後衾裔姓氏表”があり、450以上の姓と、約600年前に移民した各地の状況が記されてある。お堂に入ると薄暗い。広間の真ん中に祭壇が設置され、周りの窓際に所狭しと移民の位牌が並んでいる。すぐに係員なのか和尚さんが声をかけてきた。「姓」は、と聞かれて同行の宗さん「宗」と答える。すると積み上げられた中から「宗」家の位牌を取り出し、広間の祭壇に掲げてくれた。膝まづいた宗さん手を合わせた。次は私の番だ、すぐに「南」と答えた。

その当時、中国は外国人には旅行を開放しない地域があった。その未開放地域に行くには、太原の城内にある解放軍総司令部(旧日本軍司令部跡)で許可を貰う必要があった。しかし地方の県や鎮では外国人の宿泊できる飯店や招待所は無く、許可証は何の役にも立たなかった。私たちは南方から来た中国人となり泊まり歩いていた。山西省の地方では、訛りの強い南方の方言と日本語の区別ができない。私は咄嗟に「名」を聞かれても、間違えなく答えられるよう南方の南を使い、「南」姓で通して
いた。その「南」だった。

位牌は無いと思って答えたのだが、なんと奥の方から「南」家の位牌を捜し出し祭壇に掲げてくれた。私は冷静を装い「功徳箱」に小銭を入れ、そして焼香し手を合わせ「南家」の繁栄を祈った。こんな日本人の「南」に冥界の「南一族」の皆さん、さぞ草葉の蔭で驚いたことだろう。ビックリさせてゴメンナサイ。

それから十数年後、再び広勝寺を訪れた。門前の“霍泉”は一段と高い鉄柵に囲まれ、泉の水を売る人の姿は無かった。以前、参道の階段にいた親子の写真を渡そうと来たのだが、周りを見ても人影は無かった。

飛虹塔に登って行き、門前にある参観券売場のオヤジさんに写真を見せ尋ねた。暗くて良く分からないと外に出てきた。続いてオバさんが2~3人出てきた。写真を覗き込むと一声「?」という。オヤジさんは、この人は門前に並んでいる土産店の人だと教えてくれた。すると一人のオバさんが駆け出して行った。そぐに見覚えのあるお母さんを連れてきてくれた。パーマをかけ都会化されて?綺麗になっていた。「ニーハオ」、「ニーハオ」。写真を見ながら嬉しそうに、息子も元気でもう中学生になっているという。別れる時、彼女はお礼にと何種類か広勝寺のガイドブックをプレゼントしてくれた。「謝謝」、「謝謝」。私も写真と名刺を渡して「再見」、「再見」。
今度来た時は子供に会いたい。