山西省四方山話 26
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洗 髪 (2)
 山西の好きな人たちと地方を巡る旅は楽しい。

 今回は寺廟、史跡、食べ物・・・・と何でも見たい友人と、「生きている地下住居」(彰国社)に、山西省の珍しい下沈式窰洞があると紹介されていた平陸県に出かけた。

 私が1970年初めて中国を訪問して以来、窰洞には興味を持ち続けていた。初めてその窰洞に入れてもらえたのは、1995年吉県南村坡の農家の山懸式窰洞、突然の訪問であったが住居を見せてもらい、オンドルの上で香瓜をご馳走になった。しかし未だ下沈式窰洞は見たことがなかった。

 それから数年後、平陸県に向かった。太原からは臨汾を経由するのが近道だが、省の南東地方にも名所旧跡が多く、そこで長治を廻って行くことにした。

 途中、楡社県白北郷で一休み。ここには埼玉県日中友好協会の援助で建設中の希望小学校がありそこを見学。老師や関係者と懇談のあと、手作りラーメンをご馳走になった。そこから南に走り武郷県で八路軍太行記念館を参観。広い前庭の奥に記念館がある。その館内も広く、近代から解放までの歴史を学ぶ場となっている。一時間や二時間では廻りきれない。ここは「馬上の看花」で長治に向かった。城外にある明代創建の観音堂を見学。菩薩様の塑像が所狭しと壁に張り付いている。孔子、老子、釈迦の彩像が並んでいるのが珍しい。その後、城内に入り府城隍廟、上党門などを見学した。

 次の日は晋城に向かう。この地で有名なのが県城から南15粁にある青蓮寺。この寺は山の中腹にある。登り口にある土産屋には爆竹の入った段ボールが積まれ売られていた。青蓮寺の山門の前は千丈の谷、参拝者は爆竹に火を付け投げる。束の爆竹は轟音と煙に包まれ火花を散らしながら谷底に落ちて行く。胸がスッキリしたが、これで厄払いになるのか、それとも儀式なのか分からない。

 前に来た時は気づかなかったが、土産屋の裏に川が流れていた。帰り際に魚でもいるかと見に行くと、橋の欄干に「丹河」とあった。丹河は歴史的に有名な川でその名は知っていたが、私はこの地に流れているとは知らなかった。

帰ってから詳しく調べてみた。{紀元前260年頃の戦国時代末期、それまで覇を競っていた七か国の内、秦がその勢力を広げ各国を制覇し、残るは山西に拠点を置く趙となった。趙は秦の侵攻に備えその主力軍を長平(現、高平市)に集結、その数40万人。兵力に劣る秦軍の将軍白起は、趙軍への食糧と援軍を絶つ持久戦を展開。周囲に百里長城を築くなど包囲網を固め兵糧攻めにすること約40日。趙軍は「弾尽・粮絶」となり投降。そこで白起は小人約240人を除き、兵士、大人全員を虐殺。その地は、切りとった首が山となり、血は流れ「楊谷之水・皆変為丹」となった。河は下流まで血で丹(赤)に染まった。それで河の名は「丹河」となった。そして40年後、秦始皇帝が誕生した。

歴史は下って約1000年後、唐の玄宗皇帝がこの地を巡幸。今なをこの山野に散乱する白骨を目の当たりにし、供養のためこの地、谷口村に[髑髏王廟]を建立。現在も、この地方から白骨や武器の破片が出土している}

青蓮寺参拝の後、窰洞のある平陸県に向かう。途中に陽城県を通る。この県は小さいが名所旧跡が多い。そこで瑠璃瓦で有名な海会寺の仏塔を見に寄った。塔は入り口から三層まで窓は無く真っ暗闇、崩れた石の螺旋階段を這うように登る。四層からは窓があり内部の状況が見えてきたが、壁に穿った小さな龕に仏様は無かった。破壊されたのか、盗まれたのか無残な姿の穴が上層まで続いている。十層には珍しく欄干がある。外に出て一回りすると、360度夕日に映えた山間の景色が楽しめた。気分もスッキリ[心曠神怡]となった。

そんな道中で、この日は隣の沁水県で日が暮れてしまった。県城に入るとすぐに招待所が見つかった。夕食のあとテレビのない房間では何もする事が無い。夜の街を冷やかしに出る。繁華街が遠いのか商店も少ない。ポツンと夜店が一つ道端で栗を焼いていた。私は初めて見る大きな栗だ。甘栗と違った淡白な味で美味しい。食べながら歩いていると、灯りのついた店が二三軒見えた。雑貨屋と靴屋そして隣に理髪の看板。
店の前で娘さんが小さな椅子に腰かけ編み物をしている。私は「満腹」だったが「禍」のないことを願って、「洗髪可以?」と声をかけた。娘さん「可以」と二つ返事。店の中は薄暗く裸電球が天井に一つ。鏡の前には椅子が無い。立ったまま洗髪かと思っていると、娘さんが座っていた椅子を持ってきた。腰掛けるやいなや頭に液体をかけ始めた、私は手に持っていたタオルを急いで首に巻いた。頭がスーとしてきた、揉み始めたが泡が立たない。しばらくして違った瓶の液体をかけた。今度はシャンプーかと思ったが、またスーとしてきた。気持ちは良いがやはり泡が出てこない。
四五分揉んでいたか、首からタオルを取って「完了」、「一快(15円)」という。安いがこれで汚れが落ちたのか、シャンプーを使わない洗髪は初めてだ。中国では「満腹のとき髪を洗うな」と言うが、必ず何か起きるから面白い。

翌朝招待所を出発、門を出ると道路脇に人が集まっている。見ると歩道に水道栓が一つ、皆そこから水を汲んで行く、この地に[洗髪]の水など無いのだ。

一路、窰洞村に向かい西に走った。黄土高原が開けてくると平陸県に入る。南には黄河、その先は河南省だが霞んで見えない。尋ねたい下沈式窰洞は張店郷侯王村の杜恩玉宅だ。もうこの辺りかと車を止め道端のおばさんに聞くと、もう通り過ぎたという。500メートルほど戻ると教えてくれた横道があった。入って行くと地上に大きな一軒家、「ニーハオ」と声を掛けると若者が出てきた。間違いなく杜さんの家だった。窰洞を見に来たと言うと、若者はこの家は経済的に豊かになり、数年前地上に建てたと言う。地上の家は建築費は高く、維持に金はかかるが生活は便利になったと言う。そして裏にある下沈式窰洞に案内してくれた。裏に廻り坂道を下り中に入る。平地を約10メートル四方、深さ約6メートルを垂直に掘り、四方に穴を穿いた窰洞(図参照)。もう数年も放置されているにで雑然としていたが面影は残っていた。皆初めて見る下沈のヤオトンに興味津々。若者は廃墟となった住処を説明しながら、この地方には木も石も無く、人々は大昔から黄土を掘って住み、地上を耕し生活してきたと。そしてこの様な家は自力で掘るので、経費は安く維持費もかからない。夏は涼しく、冬は暖かく、風の影響も少ない、何より住んでいて安らぎを覚えるのだと、話をしてくれた。

[百聞は一見に如かず]。また一つ夢が叶った。

お礼にとタバコや飴など差し出すと、家の梨を食べて行きなと皮を剥いてくれた。形は洋梨で瑞々しく甘い。真夏には一服の清涼剤だった。皆「ハオチー・ハオチー」、すると若者は母屋の屋根に登り枝から梨をもいでくれた。袋一杯の土産まで戴き「謝謝・謝謝」、「再見、再見」。

この地にも忘れられない人ができた。