山西省四方山話 28
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食べある記

  旅は、名所旧跡を訪ねる楽しみのほか、その地方の食文化に出会う楽しみがある。これからは各地で出会った思い出に残る、変わった食べ物を書いて見る。

*大寨のソバ

 中国を初めて訪問したのは1970年。当時、国内は文化大革命の最中であった。私はその時代に叫ばれていたスローガンの「農業は大寨に学ぶ」が舞台であった山西省の参観を希望したが、外国人の訪問は不可能であった。その後何回か訪中し、念願が叶ったのは1979年1月であった。

 その日、曇り空の大寨村は気温が零下5~6度か非常に寒かった。小さな村には不似合いな大きな建物が目立っていた。通りに人影はなく、家の前に子供が何人か遊んでいた。そんな閑散とした村の中を歩いているのは我々十人余りの集団だけだった。

 賓館に着くと、夕食は餐庁でと案内された。入るとこれが食堂かとその広さに驚いた。テニスコートが二つ三つ入る大きさ。かつては連日何万人と押しかけ、一度に何百人がメシを食った場所だったのだろう。その片隅に丸いテーブルが二つだけ用意されていた。暖房は無く寒い。誰かが売店から酒を買ってきた。言葉が通じないので棚の上段にあった一番値段の高い物だという。見るからに高級な感じのする茶色の壺。早速コップに注いで・・・・乾杯とはいかなかった。匂いが違った。醋であった。山西には酒より高価な醋があったのだ。

 翌日の夕食は食堂が殺風景なので、私の大きな部屋に用意してもらった。その日は団員の田島さんの誕生日であった。そこでホテルがお祝いにケーキをプレゼントしてくれた。黄色い桃の形をしたその上に、色とりどりの果物が乗っていた。豪快ないかにも山西らしいケーキに田島さん大喜び。食べてみると粟と玉米(トウモロコシ)の蒸しパン。この地方でしか食べられない味であった。

 翌日、私は一人で黄土高原を登り、たつて大寨自慢の段々畑を見下ろした。しかし見渡す限りの畑は荒れ果て、ただ黄土の塊だけが剥き出しになっていた。あの文革時代の喧騒を想像できない静寂の世界であった。

 高原を下り、村を歩いていると大きな飯店が目に入った。覗いて見ると何十人と入れる広さ、しかし客は一人も居ない。何か珍しい物でも食べようと菜単(メニュー)を見るも知っている料理の名は無かった。そこで「麺」の付く物は無難かと一つ頼んだ。運ばれてきた麺は丼に盛られ見た目はソバ。聞いてみると玉米や燕麦など雑穀をねった麺という。湯(スープ)は丼の底に少し、口にするとバサバサで喉を通らない。そこでもう一つ湯だけを頼んだ。今度は湯気の上がった丼がきた。香りはいい。中を見ると底に何やら塊が二三ケ、噛んでみると何の動物か分からぬがモツだった。そこに麺を入れると日本風カケ蕎麦となった。今度はなんとか喉を通過し平らげることができた。

 美味しくは無なかったが、忘れられない思い出の「麺」となった。