山西省四方山話 27
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その後の「私の陳さん」
 1979年、太原で初めて会った陳さんは、このHP[山西省四方山話]№8で紹介した「陳端本さん」のことで、今も交流が続いている。

 その後も、山西大学に留学生を引率した機会を利用して度々自宅を訪問した。私は彼とその家族の交流で、ごく普通の市民の身近な生活や風俗、習慣など知ることができた。また中国人が強かに生きてゆく知恵も知ることができた。

 当時、酒豪であった彼の家には、私の好物である汾酒がいつも置いてあった。その酒を飲みながら聞いた、忘れられない面白い話を幾つか書いてみる。

 彼の話では、祖父は国民党の幹部で蒋介石や廖承志などと活動したという。父はその影響もあって、戦前に日本の大学に留学した。一家は東京の中目黒に住み、1950年に彼は生まれた。教育者であった父は子供の躾には厳しかったという。しかし彼は勉強が大嫌いだった。少年の頃、勉強をしない彼は父から激しく叱られた。頭にきた彼は“死んでやる”と、四階の家の窓から身を投げた。幸か不幸か街路樹の枝に
引っ掛かり助かった。

 そんな彼は、子供の頃から水泳が好きだった。今でも冬の汾河に張る氷を割って入り、寒中水泳を楽しんでいるという。

 青年となったある夏、一度は黄河を泳いでみたいと出かけた。滔々と流れる黄河を見て胸が躍ったという。裸になり彼は飛び込んだ。しかし彼は黄河の恐ろしさを知らなかった。川面は穏やかに見えるが、水中は複雑に渦巻いて流れている。気が付くと岸から離れ流されて行く、慌てて戻ろうとするも岸に近づけない。もがき疲れ泳げなくなった。もうこれ迄かと仰向けに浮き、息を止め目を閉じた。数時間後、気が付くと対岸の河南省に漂着していた。近くの農民が見つけてくれ助かった。

 こんな破天荒な彼も母親の言うことは良く聞いたという。戦中戦後の東京で兄弟四人を産み育てた母は、彼に日本語を学ぶことを進めた。陳さん一家は日本の敗戦後、暫らくして中国に帰った為、彼は日本語を知らなかった。そこで近くに住む中国残留婦人を尋ね、また山西大学の日語講座に通うなど独学に励んだ。私が初めて太原で会ったのはその頃であった。

 それから数年後、山西大学に留学生を引率し宿泊していた専家楼に、彼から電話が掛かってきた。「ナカジマ、アサリタベルカ」と、私は貝は好物、二つ返事で「好」。

 夜、水西門にある彼の家を訪ねた。玄関の横に黒光りした石炭の塊が積まれていた。初めて会う母親は「老太太」の風格。子供二人も出迎えてくれた。皆で囲んだテーブルには真ん中に煙突の立った大鍋、中は羊肉と野菜のゴッタ煮。美味しく戴き満腹となった、が「アサリ」の出てくる気配がない。私は「アサリ」は、聞くと、奥さんが台所から持ってきたザルに拳ぐらいの茶黄色した貝が山積み、見るからにグロテスクな淡水の貝。私はこれは「アサリ」ではない、と言うが、太原ではこれを「アサリ」で売っている話。食べる勇気が出てこなかった。

 またある年、例によって電話があった。今度は「ナカジマ、エビタベルカ」と、私の好物を良く知っているなと「好」。車で迎えに来るという。そこで私は、留学生には中国人とジカに話をする良い機会と、富士見市から留学している女学生を誘った。

 陳さんの友人である王さんが自家用車を運転してきた。これから王さんの別荘で宴会だという。陳さんの奥さんも同乗していた。彼女が宴会の料理を作ってくれるとい
う。料理の腕はプロ並みだ。

 大学から車は東に向かった。太原駅の裏に廻り黄土高原を登る。段々畑の中を走り道が細くなった所に「外国人立入禁止」の立札。車を止めた王さん「俺は共産党だ、問題無い」と、札を引き抜き草むらに投げた。しばらく行くと窰洞(ヤオトン)が見えてきた。近づくと若者がレンガを作っている。その前にレンガ作りの二階建、そこが王さんの別荘だった。王さん、車から降りるとトランクを開けた。そして中から鉄砲を取り出しこれから兎狩りに行くという。三人で高原の藪に向かった。王さんに付きず離れず段々畑を登った。歩き廻ること小一時間。兎も小鳥も姿を見せなかった。

 別荘に戻ると、奥さんと留学生が料理を作ってくれていた。まずは汾酒で乾杯、宴もたけなわとなったが「エビ」が出てこない。私が「エビはいるのか」というと、奥さんが部屋の隅から籠を持ってきた。中からゴソゴソ音がする。生きたエビかと蓋を開け覗くと、赤黒いアメリカザリガニが数十匹、食われてたまるかとハサミをバンザイし威嚇している。私はそのザリガニと目と目が合い食欲喪失。これも市場で「エビ」と売っていた話。私は「今、日本では食べない」と遠慮した。

 それから十数年後、この辺りに開通した高速道路を走って五台山に向かった。この黄土高原に太古から暮らす生き物達は、突然この地を通過する高速の物体を避けられなかった。ある物は跳ねられ血だらけに、ある物は潰され煎餅となり、路上の至る所にその無残な姿を曝していた。

 数年前、陳さんは還暦を迎え定年となった。昨年再会した時、奥さんと二人で悠々自適の年金だと語っていた。マイホームを建て、広い庭に池を掘り、色とりどりの綺麗な鯉を何匹も飼っていると。そして「来年もぜひ来てくれ、その時は我が家で鯉料理をご馳走する」と言ってくれた。

 今度は、どんな色の「コイ」が出てくるか楽しみだ。